2004-11-01から1ヶ月間の記事一覧

表現をなしうる人間頭脳の機能 

<表現という語彙> 「表現」ということばが一般につかわれるとき、その語彙は、「表現する」という過程的なものを指示するばあいと、その表現したことの結果としてあらわれた「表現されたものやかたちのありかた」を指示するばあいとの両義があります。 こ…

 映像視想メモ(13)  

<映像視想メモ・最終回> 1981年執筆 あるとき、4・5人ばかりの映画ファンと、いましがた見たキューブリックの「二〇〇一年宇宙の旅」についてわいわいと語らっていた所、SF映画マニアのもの知り屋の一人が、やおら、その映画で使われた宇宙船模型の話…

 映像視想メモ(12)  

<映像視想メモ・第12回> 1981年執筆 映画を見終えた後、自心の中で、はじめ見た折に生じた精神への衝撃がいくばくも持続しえずに、時の隔たりの内に風化してゆく作品がある。それとは逆に、見たばかりの折はさほどとも意識されなかったわずかばかりの衝撃…

 映像視想メモ(11)  

<映像視想メモ・第11回> 1981年執筆 「風たちの午後」(80・16ミリ)を観た。矢崎仁司さんが演出したこの劇映画は、アクションの細やかなディティールをつとめて大切に撮り込んだ、作家の気合のこめられた作品であった。 主役のナツコ役を演じた綾セツコの…

 映像視想メモ(10)  

<映像視想メモ・第10回> 1981年執筆 こちらの肺腑がえぐりとられるほどの、深い、息のつまるような感動というやうつは、一体どこからやってくるものだろうか。眼の前のスクリーンに映し出されている頼りなげな映像に注視することをやめ、ぼくはしきりとそ…

 映像視想メモ(9)  

<映像視想メモ・第9回> 1981年執筆 “映画は観客を楽しませるものであってほしい”という主張がある。楽しさというものへの個的差異を無反省に考えている点を問いつめたい心はあるが、基本的には間違っているとはいえない主張だと思う。その発言が時におや…

 映像視想メモ(8)  

<映像視想メモ・第8回> 1981年執筆 プガジャ2月号のイベント評で紹介されていた劇団“日本維新派”の公演『昼間よく通る近所の道』を、縁があって8ミリで撮る仕事をした。 京都の映像仲間3人と手を組み、プロジェクトチームを結成して、その芝居公演は無…

 映像視想メモ(7)  

<映像視想メモ・第7回> 1981年執筆 「キネマ・ハウス」という自主製作映画の常設館が、2月から胎動をはじめた。 午後6時までは喫茶店として営業しているが、喫茶店をやることが目的ではなく、自主製作映画の常設館をやりたいというのが本来の動機なので…

 映像視想メモ(6)  

<映像視想メモ・第6回> 1981年執筆 東京のアニメ作家・相原信洋さんが、久方振りに新作を発表した。それもいちどきに5本。まとめてどどっとイメージ・フォーラムで上映されたので、そいつを見ようと東京へ出かけた。そのうち、実写を混じえた作品が3本…

 映像視想メモ(5)   

<映像視想メモ・第5回> 1980年執筆 映画を見終わったあとで、その作品を幾度となく頭の中の空想映画館に上映しては、自己の感情のざわめきの由来をはっきりさせてやりたいと、ひとしきり精出すことがある。無駄な徒労だと知りつつも、そうした感情が自身…

 映像視想メモ(4)  

<映像視想メモ・第4回> 1980年執筆 友人と2人で岡山の能勢伊勢雄さんに会いにいった。「共同性の地平を求めて」(80・16ミリ)というドキュメンタリー映画が2時間版であるまとまりをみたので、全国で上映を行いたいが、関西の方面はいまひとつよく知らな…

 映像視想メモ(3)  

<映像視想メモ・第3回> 1980年執筆 なにやら訳の分からないうちにひと月が走り過ぎていった。このひと月の間、できる限り自主製作映画の上映会には足を運び、結構数多い上映会がぼくの時間を喰いつぶしてはいったのだが、量的なものとは裏腹に、映画を見…

 映像視想メモ(2)    

<映像視想メモ・第2回>(1980年執筆) オルフェの袋小路が主催した上映会“夏の夜のシネマ流星群”は、久方ぶりに主催者のすさまじいエネルギーがこちらの側にヒシヒシと伝わってくる心うれしい上映会であった。8月29日から31日にかけて催されたこのビッグ…

 映像視想メモ(1)   

1978年の夏、アニメ作家・相原信洋さんを講師として大阪に招き、アニメの実践制作講座・アニメ塾が催されました。じつは、わたしがその仕掛け人でした。そこに20人ばかりの人たちが参加し、アニメーションの個人表現を熱心に学ばれました。その俊英のひとり…

  プガジャの時代   

いまでは、右をみても左をみても情報誌は花盛り。なにがいつどこでどうおこなわれているのか、そのイベントを見つけだすことにとまどうことはありません。 でも、わたしが映画を猛烈に見はじめた1960年代末期には、まだそんな便利なものはありませんでした。…

背のびしてミューズの蹠(あし)をくすぐらん

ある映画本をひもといていると、昭和17年の、さる劇映画の打ち上げ写真におもわぬ人物が写りこんでいて、頬がたちまちほころんでしまいました。川島雄三が写りこんでいたのです。松竹の助監督時代のスタッフ写真でした。 そうか、この作品の助監督をやって…

 おもしろい文章を発見   

おもしろい文章を発見しました。 いま韓流が大きなブームのさなかにありますが、いまをさかのぼること17年前、まだ韓国映画は、まったくといってよいほどかえりみられることのなかった時代でした。 そうした環境のさなか、冒険的に韓国映画を輸入して、一般…

実写とアニメーション映像との創出過程のちがい 

実写映像とアニメーション映像のその創出過程の過程的差異を、ここに考察しておきたいとおもいます。 実写映像は、現実の動的な視覚光景を写し撮ったものです。それは上映過程を通じて、その動的再現がなされ表現されることとなります。 この過程を短絡して…

 映画に関する私的な6つの断片ノート  

すこしまえに掲載した「8mmの視界」の延長上です。 その文章を掲載したミニコミ紙の主催者が、関西圏で活動しているマイナーな表現者たちの知り合いを総動員して、単行本をつくる企画を立てました。わたしあてにも執筆依頼があり、スペースのゆとりもあっ…

  映像論のために   

現代映像論には、とんでもない代物が数おおくあります。それをひとしきり不満におもうのですが、それをきっちりと展開するには、資料収集や思考の深まりがいまだ不十分です。 とはいえ、現状目にあまる状況はそのままにも捨ておけず、映像を考える基礎の問題…

―個人映画の沃野― 8mmの視界  

とある劇団の人たちと親交が厚かった時代、その役者さんのひとりがミニコミ紙をつくっていて、そこに寄稿をたのまれました。もう四半世紀以上もまえのできごとです。 論理的にはおかしいところが間々あり、そう言っちゃあーダメとおもわず声を出しかけてしま…

 映画=映像視覚の構成体   

現在の映画は、その聴覚表現性をいったん捨象しますと、映像視覚(ショット・カット)の構成体として表現されているといえるでしょう。映画はなによりも、この視覚体験が命です。 映像を構成するというこの表現のありかたは、いわば映画を映画たらしめる映画…

 『芸術とはどういうものか』を読む・1  

三浦つとむの『芸術とはどういうものか』(至誠堂)を読んでいきたいとおもいます。 この書は、現在絶版になっていて、古書店でないと手に入りません。目にされたことのあるかたはあまりいないでしょう。この場では絶無かもしれません。 そういうこともあって…

  道元のことば     

わたしの理論上の師は、以前に書いたように三浦つとむと南郷継正です。 むろんそのほかにも、わたしには多くの私淑する師というべき方たちはおおくいました。とくに専門の映画・映像分野では、それこそいくたの監督・作家に、その作品を通じて、おおくの教え…

  表現と表現性    

表現と表現性とは、区別して語られなければなりません。 映画表現と映画表現性とはちがった意味をもつものです。その混同がおこらぬよう、きっちりとどう違うのかを明確に弁別して使い分ける必要があります。 そのヒントとして、弁証法と弁証法性ということ…

 映像表現、撮影からの旅立ち   

過去に発表した執筆ストックのファイルを捜しておりますが、大きなバインド分が見つかりません。どうやら、家捜しをしなければ出てくる様子にありません。 この間、すこし捜しはじめていた途上で、書きかけたままにすっかり忘れていたテキスト仕立て風の文章…

 わたしの考えかたの背景にあるもの  

わたしの表現論の理論的背景とその形成について、すこし話をさせていただければとおもいます。 映画を、自己の理性的視野におさめたいという衝動がわたしを襲ったのは、まだ年若き時代(1970年代前半)のことです。そのころの巷の映画論は、あまりに劇映画中…

 映画、そのはじまりの展望     

とあるインターネットの理論的討議の場があり、その論争のやりとりの流れのなかで、映画の発展過程の論理的素描の提示の必要に迫られました。 インターネット上の小スペースでもあり、映画史のすべてというわけにもまいりませんので、映画のはじまりのそのし…

 はじめに・そしてこの文体   

<あらたなコーナーをはじめるにあたって> 別のコーナーを受け持たさせていただいております。「WS通信講座」です。 無理をいって、それを休止するうえに、わざわざこのコーナーを立ちあげていただくようにお願いしました。 この間、ちょっとしたできごと…