映画、そのはじまりの展望     


 とあるインターネットの理論的討議の場があり、その論争のやりとりの流れのなかで、映画の発展過程の論理的素描の提示の必要に迫られました。
 インターネット上の小スペースでもあり、映画史のすべてというわけにもまいりませんので、映画のはじまりのそのしょっぱなの過程的展望を、表現論的に素描してみました。

 論争の場であり、切迫したやりとりのなかで、思いがけずにコンセントレーションが高まり、いまの自分のほぼ最高質のものが書けたのではとおもえます。

 映画史の展望の参考に供していただければ幸いです。


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<映画、そのはじまりの展望>


 映画は、われわれの視覚対象光像の連続記録とその再現として誕生を見ました。写真技術の発展的成果として実現をみたものです。

 分割された時系列の連続写真(静止体)をある一定のスピードをこえて連続的に知覚していくと、残像によって動きの再現幻想の視覚効果が生じます。静止が静止とは知覚されず、もう動きとしてしか知覚されなくなるのです。

 それを実現する写真機械がシネカメラであり、その実現体(フィルム)を投影する機械が映写機です。
 この映画システムは、もとより芸術表現を実現させるために発明をみたものではありません。ただ、現実光景の動態記録を実現することだけを目的に発明をみたものです。

 最初の映画は、その撮影された、つまりフィルムに光像を定着させた表れを、そのままに映写したものでした。

 表現的には、光景撮影=表現という段階レベルの映画でした。

 固定視点の1分たらずの時間光景を、ワンショットで映じる単純素朴なものでした。

 それでも、実体がそこにないものを、しかもその動きを、そこにあるかのように知覚できる体験は、非常な驚きを味わわさせるものでした。
 それだけで、うわぁーと叫びたくなるほどの、スペクタクルな興奮を味わうことのできる画期的な表現なのでした。
 それゆえ、その映写興行は、経済的成功をみていくこととなったのです。

 しかし、その映画体験は、ある種興奮をともなうとともに、同じ光景の映画体験ではスグ飽きられてしまうことも同時におこります。同じものを何度も何度も味わいたいというほどの深い表現性が、そこにはまだ実現をみていなかったからです。
 驚きの感動も、知ればそれまで、失せやすいものです。
 もっと見たいという心理動力と、もう見たくないという心理動力、その観客の移ろう心を標的に、その経済的成功を持続させるためには、もっと表現性に富み、人の心により大きい興奮や感動をともなう表現が欲求されていくこととなります。

 撮影対象の工夫がはじまります。
 なにを観客は見たがるだろうか、驚きの高まる対象はなんだろうか、そういう対象が選択されていきます。

 選択の必然をより高める。これは表現を高度化する一歩です。

 「列車の到着」という初期のリュミエール映画は、蒸気機関車が煙を立ち昇らせながら到着する様子が駅頭から撮影されており、その機関車のダイナミックにアップ化されていく写り込みは、この生誕期の映画の代表格といえるでしょう。

 光景撮影=表現レベルでは、面白さを生み出すのに限界があります。
 そこで、被写体そのものを映画のために創出するという方向が、たちどころにあらわれることとなります。

 シネカメラは、連続写真として記録する機能を持ち、それがカメラ前の現実光景を写しとります。しかしその現実はあるがままの現実ではなく、人為に創られた現実であってもよいのです。

 人間の空想を起点として、その光景を創り出し、対象化する道が切り拓かれます。

 はじめは、撮影一回可能フィルム量に制限される範囲の長さで、しかも断片的パフォーマンスにとどまるといった程度のものでしたが、やがてそれは、その長さでのまとまりを持つように工夫をみていきます。すこしばかりコント化をみた表現が現れます。

 水をまいている男の背後に人が忍び寄り、ホースを踏む。すると噴射が止って、怪訝に男はホース口を顔に向けて覗く、それをみて背後の人間が踏んだ足を離すと、男の顔に勢いよく水が噴きかかり、男はそのイタズラに気づいて、振り返って怒る。
 そういうコント風景が描かれます。

 これは、創作とはいえ、ゆたかな空想力を反映させたものではありません。日常光景のカリカチュアです。
 しかし、観客の心の動きをワンカットの短い光景のあいだにダイナミックに展開させる表現を、あきらかに工夫しているのです。

 創出光景撮影=表現の段階です。

 まだその機能を独立させた映画演出家は出現を見ていません。いまだ映画は、表現創作上の分業をみない、カメラマンの被写体工夫レベルにとどまるものでした。撮影即映画の時代です。

 フィルムの撮影時間には物理的限界があります。しかし、それはつぎつぎとつないでいける物質でした。
 その接合技術の実現の結果、ワンショットの表現終焉にとどまらない、いくつかのショットをつなぎあわせて長い作品とすることが可能となります。

 つなぐということ、それは、過程的に編集が創出過程に現れたことを示します。
 映画は撮影=映画の時代から、撮影+編集=映画の時代へと展開をみせていくこととなります。


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 とここまでで筆を終えております。

 映画表現のほんのはじまりのところを素描したにすぎませんし、みなさんには、この文章の一体どこが斬新なのかは、しかと掴めないかもしれません。それはそれでよいことだとおもいます。

 これだけ書くのに四半世紀もかかったのだといえば、よほど頭が悪いのだねと、あなたは大笑いされるかもしれません。
 でも、もしあなたが、自分の頭で、この内容を論理的に見つめることができるようになれば、その内容の豊かさには、絶句するレベルがふくまれているかもしれないと、ひそかに自負しているところもあるのです。

 ここでは弁証法的論理を、これ見よがしにではなく、それとなく駆使してあります。折あらば、その弁証法についても、話すことができればと考えているところです。
 この続きの、映画・映像の表現発展史の展開も、すみやかに歩をすすめていかねばなりません。理論的に解決をみなければならない関門を突き越えつつ、その成果をすみやかに刈りとっていきたいものです。