はじめに・そしてこの文体   


<あらたなコーナーをはじめるにあたって>


 別のコーナーを受け持たさせていただいております。「WS通信講座」です。
 無理をいって、それを休止するうえに、わざわざこのコーナーを立ちあげていただくようにお願いしました。

 この間、ちょっとしたできごとが自分にはありました。
 それが自分の内部で精神的な事件となり、自分の過ぎこし方を省りみる気持ちにさせられたのです。
 いままでにやってきたこと、なかんずく過去に発表した文章をきっちりと再閲しておきたい、そういうおもいにかられました。
 そのときの自分の精神のありかたと、もう一度しっかりと向きあっておきたい、そういう気持ちが、精神の奥底からふつふつと浮上してきたのです。
 それと同時に、現在の自分の考えの最先端を、断片的にでもよいから開陳しておきたいとの気持ちも、あわせてとてもとても濃密なものとなってきました。

 その実現のための、これはコーナーです。
 映像と表現に対して、自分がかつて考え発表してきたこと、いま考えていることを、つぶやき的にでも自分にむかってまとめて書きとどめおきたい、そういうおもいをただ記述するばかりのスペースでも、それはあります。
 結果それは、他者と共有すべくもない、日記的な表現として終わってしまう試みなのかもしれません。
 そういうことにこの場をかりて発信することは、すこしばかり心苦しさが残りますが、やむにやまれぬ自分の心に従えば、いまはこういう地点からはじめるほかないようにおもいます。

 それならなにも、「WS通信講座」を休止せずとも、それとともに執筆していけばよいことなのに、とおもわれるのは至極当然のことだとおもいます。しかし、この頭のモードが、いまはただそれ一色となってしまい、当面、このことに専心したいとのおもいから、いまは離れられないでいるのです。

 この孤独な散歩者の妄想気分に、寛容な心をもっておつきあいいただければ、ただただ、ありがたいとおもうほかはありません。


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<この文体を用いるわけ>


 「WS通信講座」とは、ガラリと文体が異なり、その変貌ぶりに驚かれているかもしれません。まずはそのことに、すこしばかり触れておきたいとおもいます。

 精神を伝えるために表現というものはおこないます。ゆえに、その内容をあらわすための形式(表現形象)の工夫は不可欠といえます。
 ここでは、通信講座の語り口よりは、すこしく凛とした精神を表現しようとして、この文体に変更することとしました。

 精神の内容(中味・世界)を伝えるには、その表現受容者の五感に触れる、その手がかりとなるべき媒介としての表現形象を創出するほかありません。これが表現する(表現創出)ということにほかならないのです。
 その形象の感性的なあり方は、そのあらわす内容(精神=認識)に対して区別され、形式ということばがつかわれます。
 形式と内容とは一体関係にありますが、同じ形式がいつも同じ内容をあらわすとは限らず、ある条件下では、相手を変化させることなしに、みずからは変化することができます。このことを相対的独立をみていると表現します。
 元来両者は、切りはなすことのできない一体のものですから、絶対的な独立をみているわけではありません。またある限度をこえると、相互変化の連関が密接にからみあい、独立的な状態は解消されることとなります。

 といったことから、ある場合には、その形式を変えても、その内容は伝えることができるということがおこります。つまり書き換えがきくということになります。翻訳もそのひとつのありかたなのです。

 ここで書きあらわしたいことの内容ということでいえば、別のタッチの文体でも十分伝えることは可能だとおもいます。しかし、自分の取り組み方を表現しようとすると、WS通信講座の文体の形式では、いまの自分の美意識からは、ダメだしをするよりほかありません。

 このことを、もう少しわたしたちの表現に役立つレベルで考えてみましょう。

 たとえば「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音」という芭蕉の有名な句があります。この句にあらわされたことばの意味でいうならば、これは「古池に 蛙が飛び込み その水の音が響いた」ということである、といえるでしょう。

 しかしこういうことばに置き換え(これも一種の翻訳です)ては、芭蕉の深い美意識の世界をそのことばの形からはたぐり寄せることはできません。高度の言語芸術であるからです。
 意味をつかむだけでは、本当の真意(心の深さ)は伝わらない。ここが重要です。

 それゆえにこそ、その精神のあり方を味わわさせる(鑑賞可能とする)にたる形式化への血の滲む表現者の彫琢があることともなるのです。その彫琢する精神を、結晶化された形式(ことばの形)を通じておのが精神に映しとることができてはじめて、その味読に達したことになります。つまり芭蕉の真精神に、自分の精神の手が一歩届いたことにもなるのです。
 そのための手がかりとなる形象であるからこそ、形式のあり方の彫琢は芸術表現(美意識を反映させた鑑賞対象となる表現)において、きわめて重要な課題となります。

 むろんこの文章は、その鑑識眼を問いかえされるほどの芸術品でないことはいわずもがなです。 そこまでの彫琢など到底ほど遠いレベルの代物です。その自己評価をいいあらわせば、「ヘタ」の一語に尽きる、そういう文章です。
 しかし、その自己の取り組みのありようを、その精神をあらわすためには、いまの自分の表現力のなしうる範囲においては、この文体は、いささかわが精神にフィットするともいわねばならないものなのです。そのうえでの、この文体選択にほかなりません。