映像表現の世界 

 映像表現と一口にいっても、じつに幅広い世界です。

 監視モニターに映し出される、なんら手が入ることのない素(す)の映像も、特定場の視覚性を即時的に別の場所に移行させて体験させるという感覚場移動を実現した、人間表現の実用的なありかたのひとつであるということもできるとわたしは考えています。

 これは極端な事例で、それを表現ということには異論が生じるかもしれません。もうすこし映像表現という枠組みでとらえやすい地点にあるものを持ちだしてみましょう。

 家庭の子供の成長を記録することや、ニュース映像、これは記録という映像表現のあり方のひとつです。それを説明する立場に立つか立たないかという構成目的の違いはありますが、現実を現実として記録し、それを観客となる人のために役立てるという点では、同じ役割をになっています。こうした映像表現のありかたは一括して、実用的な側面にウェイトがおかれた実用表現だ、ということができるとおもいます。

 こうした、実用的な表現のありかたも映像表現の一面を占めますから、そうした実用的なあり方を映像表現の枠外としてあつかうことは不当といわなければなりません。しかし、こうした表現性を創作の目的としないということにおいて、それを捨象することはできます。

 わたしたちが映像表現において実現したいとおもっているのは、自分の世界をあらわにしたいということにほかならないのではないかとおもいます。たとえ風景を記録する映像がその素材として用いられたとしても、その風景映像と映像構成のありかたにおいて、自己の感性的世界・自己世界像の映像視覚化の表現をめざして映像表現をおこなうものなのでしょう。

 これは、実用的な表現とは相対的に区別して、鑑賞を目的とする表現と位置づけることができます。

 それゆえ、わたしたちのめざす表現は、鑑賞として価値をもつものとしてのそれだといいえます。これは実用性をもつとともに実現することもできますから、この区別は相対的なものであって、一つの作品がそのどちらかに属すということではありません。そしてそれは、観客との相関関係によって、成立するものですから、その意味でもその価値は相対的なのだといえます。