問いかけ方の大事 

 映画とはなにか。

 この問いかけには大きな落とし穴があります。

 現在の発展形態において体験している映画作品をベースにして、映画の表現性を恣意的に概念化してしまう自分に、無自覚かつ無反省になりがちだからです。

 感動体験の印象にひきずられるあまり、劇映画的表現に偏重して映画的表現性をとらえがちとなってしまっていることには、一般にはほとんど意識さえされない現状です。

 しかし、映画=劇映画ではありません。表現性ということにおいて、劇映画の表現力は、その高峰において、高度の実力をそなえていますし、また劇映画の発展が、映画表現の発展を導いたことは歴史的事実ですが、それはなにも、劇映画=映画という構図で映画をとらえてよいということにはなりません。

 劇映画とはなにかを問うことと、映画とはなにかを問うこととは違います。まずもって、そのことに無反省な人たちが多く見受けられます。

 映画といっても、その位相は多様です。

 ジャンル的にみても、劇映画・ドキュメンタリー映画・コマーシャルフィルム・企業PR映画・実験映画・家庭記録映像などなどがあります。それらの共通的表現性としてくくられる映画一般のありかた、それが「映画」的表現にほかなりません。

 そこには、芸術的な映画もありますし、単純な記録としての非芸術的な映画もあります。ここでいう芸術とは、高度の感動性を媒介させる表現としてのそれを指示するのではなく、その実用表現性に比して鑑賞表現性を優位にかつゆたかにそなえている、ということをあらわしている相対的概念に過ぎません。それはまた表現体験者の主体性においても相対的なものとしてあります。

 この実用的な映画表現の実現も、またひとつの映画のありかたです。家庭的できごとの記録も、人間表現の実用性に重きをおいたありかたのひとつであり、それを映画という概念の枠外におくような映画のとらえかたには、やはり疑問を呈さざるをえません。「映画とはなにか」を問うならばです。

 高度の芸術表現性を問題視して映画を問うならば、「映画芸術とはなにか」と問いかけるべきことです。それは映画表現の特殊性を考察することです。それをあやまって「映画とはなにか」として問いかけ、考えを煮つめて自分なりに答えを導きだしたとしても、それが、映画表現のすべてのありかたに共通する普遍性を見いだすことはなく、映画表現の特殊性を考察したにすぎぬことになります。が、問いかけそのものが普遍的枠組みとしてあるがゆえ、あたかも普遍的な考察をおこなったかのように思い込み、そのことに無自覚ともなりかねません。

 問いかけの自省的ありかたの大切さがそこにあります。