見ることの位相 

 「見る」にまつわる単語は多くあります。パソコンの辞書機能で引き出すと、見る・観る・視る・看る、という風に拾い出すことができます。

 「見る」とは、平凡な肉眼への反映範囲とみなしておくとしましょうか。

 「観る」となると、観察的な意識で対象をとらえている姿が浮上してきます。客体としての対象意識がより鮮明化している感触があります。

 「視る」にいたると、凝視的な様相を呈してきます。五感を視覚に際立たせて集中し、感覚している様子がうかがえます。

 「看る」においては、予想を相応にはたらかせながら、自己の対処をいかにすべきかの手立てをもくろむ気配が見えてきます。

 かく、同じく視覚的な反映を前提するものではありながら、人間の主体的な取り組みのありかたの位相が言語的に類別され、そこにまざまざと識別をみていることは、すばらしいことにおもいます。一字でその差異をしめせる漢字のおもしろさがそこにありますが、なによりも、五感のなかで、視覚性が特筆して重視されているありさまがあらためて認識させられます。現実の五感把握において、いかに視覚性が大きく鍵を握っているかということを、それはあらわしているといえるでしょう。

 映像はその視覚性が表現の命です。その対象をいかにながめているのか、見つめているのかという、作り手の眼の奥にある脳髄の働かせ方が被写体の選択のありかたと密接に結びつき、その気配をも反映させながら視覚選択され映像化をはたしていきます。

 で、あるならば、見・観・視・看の類別で、いま自分がとらえようとしている被写体を、どの視界の眼で眺めようとしているのか、そういうことを考えて見るのも、一興以上の価値はありそうにおもえます。