わたしの考えかたの背景にあるもの  


 わたしの表現論の理論的背景とその形成について、すこし話をさせていただければとおもいます。

 映画を、自己の理性的視野におさめたいという衝動がわたしを襲ったのは、まだ年若き時代(1970年代前半)のことです。そのころの巷の映画論は、あまりに劇映画中心主義のものでした。そのことが、わたしの意志形成を促進させたとおもいます。

 その頃には、わたしはすでに作品をつくっておりました。それで自分たちの映画(個人映画的な表現)が、映画表現を語るその論議のまったく埒外におかれたままにあることが、まずおかしいと感じはじめました。

 「映画表現とはなにか?」、それをなんら顧みる頭も持たないのに、既存の劇映画を中心に、それがさも当然のごとく「それが映画なんだ!」として語られていた状況に疑いがおこったのです。というよりも、もっと正直に告白すれば、腹が立ったのです。いまの目でふりかえれば、おれが無視されているという、単なる夜郎自大な憤りに、それはすぎないものだとおもいます。

 お前ら映画映画とのたまうが、はたしてその映画観は正しいのか。できあいの映画は語れるが、<映画そのもの>なんて所詮語れないじゃないか。そう問い詰めたかったわけです。
 劇映画芸術だけをまな板にのせて、この自分の映画を、それにつらなる自分たちの映画を、映画もどきのごとく見つめる視点、それは断じておかしい。それって、そもそも映画の表現本質が何もわかっていないからそうなるんじゃあーないのか。そうおもうし、そう映画評論家きどりの連中に対して噛みつくわけです。

 ある意味、現象論的には正しい指摘ですわね。わたしたちの作品も映画であることはまぎれもない事実なのですから。それらの作品も、その質はともかくとして、どういう映画であるかは語れなければおかしいのです。
 しかもこちとらは、そういう連中と違って、現実に映画をつくっている。映画表現に対する実地の感性的認識はもう満ちあふれております。
 その鋭敏な問題意識からみると、映画をまことしやかに語る連中の感性の脆弱さは目にあまるものがありました。

 実際、同じ映画作品に接しながらも、その見つめ方、つまりは鑑賞力ということになりますが、それがあまりにも浅すぎることが目につき鼻についてきます。聞きたくもない低レベルの印象批評が耳にとびこんでくるというそれは光景ともなる。
 かつてのわたし的にいえば「勝手にそうおもとけ、ボケ!」ということでチョンのレベルです。
 だから、ある面では、つまり評論家レベルの議論では圧倒的に制圧していたわけです。

 しかしです。いざふり返って脚下照顧、さて自分の映画をその「映画表現の本質」の視点から自分はどう語れるのか。その課題が重くのしかかってきました。
 そのころはそれなりの自分のボキャブラリー(言葉の持ち駒)というものがありました。
 小冊子に執筆などもしておりましたから、たとえば、
 「今泉さん、映画(の本質)って何ですか?」
てな質問がなされる局面はそれなりにあるわけです。そうすると、その持ち駒に手をのばし、すぅーっと一語を取り出し、
 「それはな、時間の質感やで」
とかっこよく応えるわけです。まあー、アホですな。
 そのアホさに、はたと気づくわけです。それを気づかせてくれたのは原将人でした。
 わたしたちの映画の実作家としてもまた理論家としても、さっそうと注目を集めていた人物です。

 彼はそのころ「映画の肉体論」というのを振りかざしていました。「映画の肉体に即して映画を語る」という言葉を用いるわけです。同時代の連中は結構この言葉に酔いしれていました。
 わたしはあまのじゃくですから、そんな言葉には引っかかりませんでした。著作も調べてみましたが、実際の論理展開はいっさいありません。いわばアジテーションレベルの言葉にすぎません。それで論というのはおかしい、そうおもったわけです。

 それでよくよく、その言葉と自分の言葉(時間の質感)とを見比べながら、原将人を論理的に否定する(論破する)ことをやろうとしました。しかし吟味に吟味を重ねると彼を否定することは自分を否定することにほかならぬと、はたと気づかされたのです。

 「そうか! こいつとおれとは同じ穴のムジナなやったんや!」

 その論理的な苦い覚醒がみずからを襲ったのでした。
 理論的覚醒やないよ、論理的覚醒や。これがほんとうの気づきということです。筋道を立てる道具がはじめにあって、それを使って答が出せたわけではない。その筋道を立てる頭の形成とともに答が見つかる、ということになるからです。論理ってむつかしいでしょう。これ、理屈とは断然違うのです。

 理屈とは、自分の答えに即してその筋道を組み立てることです。結論先にありきです。おのれは正しい、です。
 しかし、論理の道はけわしい。自分の迷妄をも想定しつつ進歩をみます。つまり、その筋道をたてた理性的ビジョンの構築のうちに自己の思考をも批判の対象にすえ、理性的に吟味するのです。
 原告と被告とが同一人で、それぞれに検事と弁護人とが対立していながらこれまた同一人、そして裁判官もあわせてまったくのたった一人という構図なのです。二律背反とその決着です。
 そういう論理構造を頭のなかに創出し、自分の迷妄をも打破しながら前進する道をすすむわけです。

 かくて原将人事件における覚醒の地点をもって、わたしのなかでは理屈的展望は実質的終焉を迎えます。
 むろん現象的には、日常茶飯事に目の前に立ちあらわれる論敵との間に理屈をも駆使して論破することは持続されます。しかし、その論破が真の論破でないこと、つまりは理論的に克服された真の決着ではないことが、はっきりと自覚されて意識に居残ることとなります。そのための不安心が生じ、理論的決着をみずからが論理的に完了し終えるまでは、それは消え去らないこととなるのです。
 ここからが地獄の道のはじまりです。

 マジに頭は悪かったですから、論理を組み立てる力など皆目ありません。ひとりではじめからとなると、どこから手をつけてよいのかわからず、手のつけなければならない問題もまた、どう考えてよいのかまるで歯が立ちません。そしてそのことすらも、じつはなにもわかっていなかった。そういうレベルだったのです。

 ゆえにその理論、つまりなんとか映画表現の本質の解明に利用できる理論を、既存のもののうちに見出そうとすることしか、情けなくもできません。よくいえば、溺れるものは藁をもつかむ、というそれです。
 どこか秘密の図書館から、うまく右から左に移しかえれる理論書を見出し、それを魔法のごとく使えば、自分の問題はあわよく片づくのではないか、その見つけ方をうまくすることがもっとも大切なことのようにおもえてくるわけです。その行動に走ります。
 わたしの好きな言葉を引用させていただければ、知的密輸入(吉本隆明)をひそかにおこなおうともくろむわけです。もっともわたしは外国語が苦手ですから、密輸入といっても国内流通の既製品という体たらくでしたが。
 それにもまして自前でその理論をつくるなど、とんでもなく別次元のことでした。

 そのころには、前記の状況から、映画書にはわたしが知りたい<映画>のことなどまったく書かれていないということは、理の当然として熟知されていましたから、本屋へいって足を運ぶのは、哲学コーナーや思想コーナーです。手当たり次第に書物を手に取ってみつめます。が、これもだめあれもだめ、ただ溜息ばかり。どうしようもない理解不能の頭がそこにあるだけです。出だしのほんの一行すら理解できない現実があるばかりなのです。

 それでも映画を解明するのだという青雲の志(これほんまに大切です)を奮い立たせ、そういう高尚そうな理論的書物を幾冊となく購入し、さて読むには読むのですが、頭に残るのはまえがきだけ。そういう悲惨な状況が延々累々と続きます。
 ほとほと疲れ、自分の頭の悪さにも憤りを通りこして諦観めいた気分が漂いはじめました。それでも<映画>を解かってこそ語りたいというおもいの炎は、か細くか細くなりながらも消え果てることなく持続されたのです。
 地獄とは、この状況を指すのではありません。これはまだ、地獄へいたる眺めのよいほんの経路でしかありません。その真に苛酷なる場の入り口にすら、いまだ到着してはおりません。

 「理論」と書名に記されてあると、ともかくその本に手をのばす、そういう時期が続きました。そして運命的書物と邂逅することとなります。
 南郷継正の書きあらわした『武道の理論』です。
 別に武道に特別の興味があったわけではありません。たまたま理論と書かれていた、それだけの偶然です。幸運でした。
 パラパラと本をめくって、すぅーと血の気が引きました。「あっ、この本は映画の本や!」衝撃が走りました。
「技を創る」と「技を使う」というその論理を相対的に弁別し、その区別と連関がしっかりと解かれてありました。南郷継正みずからが創出した理論でした。

 はじめて<映画>が書かれた本に出会えた、そうおもえたのです。変ですか。でも理論に深さがあれば、それは他分野にまでその論理適用が可能となる。いわばそういうことでした。
わたしには、映画のことと切り離してどのような書物も読むことはできなかった、そういうことでもそれはあります。
 ともかく、この衝撃があまりのものでしたので、わたしはその時の本屋の本棚の光景を、いまもありありと記憶に焼きつけているほどです。

 この書には、弁証法論理を駆使した、という意味のことばが書かれてありました。弁証法という用語だけは知っていました。本屋にさっそくとんでいき、弁証法と書かれてあればやみくもに目を通しました。たしかにタイトルには弁証法ということばがついています。でもその内容は『武道の理論』とどうにもつながりません。それ以上にすすめない状態が続きました。

 そのうち南郷継正のあらたな著作が出版されました。こんどは、認識論という耳なれないことばが出てきます。なんでも科学的認識論をもたない理論では、理論的解明など到底不可能ということのようなのです。それは大変です。ほんもの?の弁証法さえ不明なのにさらに認識論も身につけなければならない模様です。またもや本屋にすっとんでいきました。結果は弁証法とまったく同じ。あれもだめこれもだめ、ただ書名に認識論という文字が刻印されているばかりで、求めるものとはまったく異質の別物でした。
 街を歩いていても本屋があれば飛び込む。隅から隅まで本棚をのぞく。大きな本屋で本の並べかえがあると模様の異相認知で一瞥して識別される。そういう時期でした。

 そんなおり、とある本屋の言語学(言語になんぞまったく興味なんかないのです)のコーナーを、なんぞあるまいかとウの目タカの目でたどっていました。
 ふと『認識と言語の理論』という三浦つとむという人のあらわした本が目にとびこんできました。ドキッとしました。手に取るまえに「この本ちゃうか」となにかピンとくるものがありました。この直観がなんだったのかはいまだによくわかりません。でもそういう確信めいたものが、ふぅーっと先に意識に浮上したのは事実です。そしてまさしくそれはそうなのでした。

 いまでは、南郷氏は三浦つとむの名前をはっきりと掲げておられます。その当時も、ただわたしが無知だっただけのことで、読む人が読めば、三浦つとむはすでに名のある著述家でしたから、そこに書かれてある背後に、三浦弁証法や三浦認識論があることは透視しえたでしょう。が、わたしは結局自力で探索し、その一致点を自分なりに見出して発見をみたのです。それは誰でも発見できるレベルのことでしたが、自分なりに見出したというその発見の喜びは大きく、その感動が懐けたことは、いまでもわたしの大切な心の遺産のひとつです。
 結果、この本屋の本棚のその時点の光景もまた、心にしっかりと刻印されるものとなりました。

 三浦つとむ、これがまたものすごい人でした。
 この人が著した本の一冊に『弁証法はどういう科学か』があります。南郷継正は、この書にひたすら学んだ人でした。その学びは、三浦学説を暗記し解釈してわがものとしたのではありません。三浦弁証法を、武道修業を媒介させることにおいて、学問構築レベルで、いわば三浦つとむの頭になって学的疑問が解ききれるレベルで会得し、独自の理論を打立てたのでした。南郷継正の記した弁証法とは、まぎれもなく三浦つとむのそれだったのです。

 三浦つとむは、スターリン批判を戦後、世界にさきがけておこなった学者としても著名です。その時代背景がわかると、どれほどの学的良心と勇気、そしてなによりもずばぬけた論理力があったかがわかります。
 三浦つとむは、マルクス・エンゲルスそしてマルクス・エンゲルスとは別個に唯物弁証法を発見したヨゼフ・ディーツゲンに深く学びました。
 そしてその弁証法を再措定(学的見地から自己の取り組む対象にその論理構造を再発見して自己のものとすること)することによって自家薬籠中のものとなし、世界最高峰レベルにおいて弁証法を駆使しえる独学者となりえたのでした。

 そしてこの両先生の著作から、わたしは学びに学ぶこととなります。目からウロコの連続でした。それはとてもとてもぜいたくすぎるぐらいラッキーなことだったのです。

 みなさんは、すこしおかしいじゃないそれ、とおもいはじめていませんか?
 それなら、ただよかったよかったというだけの話しであって、まあいえば、うまい密輸入本が苦心惨憺のすえ手に入ったということとどこがどう違うのかという疑問です。なかんずく、その学びがどうして地獄となるのでしょうか。ちょっとばかしむつかしい本の内容だった。そういうことだったのかな、とこう心のうちでおもわれてはおられないでしょうか。

 この解釈は、まったく違うのです。
 まず著作の文章。これはある意味で無茶苦茶やさしいのです。哲学書のその哲学者の脳内の概念規定をたどる苦しさとは雲泥の差です。それでいて、<映画>をどう考えていくべきかのヒントに満ちあふれている。だから魅せられたのです。
 さらに三浦つとむは映画表現論の大家である側面も持ちあわせていました。その内容を暗記したり解釈したりする程度では、たやすい側面がありました。

 しかし、この両者ともいわゆる一般の学者とはまったく違った実力を備えていました。先人の業績の解釈をただわかりやすく展開した学者ではないのです。独自の理論を構築しえる論理実力を持ち、その実力をもって学の発展に寄与しえるほどの歴史的業績をあらわしたほんものの学者なのです。
 その実力があればこそ、その独自の理論が構築できたわけです。その頭に一歩でも近づかなければ、<映画>そのものを自分が解明することなど到底できない相談だとおもえました。解き明かされたことをいくら覚えて頭につめこんでも、なんの役にも立たないのです。あらたな問題、だれも解き明かしえない問題が解けなければならないのですから。

 「技を創る」つまり本の言葉と内容を覚えきるということと同時に、「技を使う」その考えを自分の考えとして展開する。ということができなければまったく話しになりません。
 つまり、自分の頭を他人化(ここでは三浦つとむ、南郷継正化)しなければならないのです。
 これが地獄なのです。その意味では、その論理レベルの頭の実力が高きに高すぎるのです。

 いまだに、両巨匠はわたしにとって、はるかかなたの高峰の人です。雲までかかって頂上など到底見えはしません。しかし、以前よりはすこし接近しているなぁー、すこしばかり頭が三浦化・南郷化しているかなぁーという実感は持てるのです。あのどうしようもなかったこのアホの頭がです!

 ここまでの道程は、ほんとうにほんとうに大変なことでした。
 のばせば手の届く距離にあるハンマーで、いきなりこの腐った頭をかちわって脳ミソ取り出して洗濯したろか! とマジでおもうほどの衝動が幾度となく襲う、それほどのことでした。このまま廃人になるのやろか、そういうなにか得体のしれん恐怖もありました。

 そのことに専心して10年。まだちょろっと程度にしか自己解明のできる理論範囲はありません。ほとんどなにひとつわからんままといってよい状態、暗中模索の霧のなかです。
 自己課題をいささか以上に高く設定して取り組んでいるせいもあったのでしょう。
 映画表現を考えるには、もっとひろく表現全体が見渡せなければその映画表現の特殊性はつかめない。表現そのものは人間に特有のものやから、そもそも人間がなぜ表現するのかそれがわからんと、個別の表現を総合的にとらえるだけでは埒があかん。その表現できる人間とは、では一体そもそもなんなのか。
 気宇壮大といえば聞こえはよい。現実には風呂敷を広げすぎただけのことでした。そんなビジョンののなかで、<映画>をとらえようとしていましたから、実力が追いつくはずがありません。

 しかしこれらの課題を解明するには、弁証法的思考をすこしでもものするほかはない。その一念だけはゆるぎませんでした。
 わたしは、弁証法を身につけたくて弁証法を学んだのではありません。ただただ映画を自己の思惟のうちに展望したいがために学びはじめたのです。そしてそういうこと以外に、じつは弁証法をものにすることはできない相談なのでした。

 個別科学(ここでは社会科学としての芸術論や表現論となります)の研究とともにしか、弁証法の修得は無理なことなのです。再措定が必要だからです。それは自己の専門分野でおこなうほかないのです。そのことを独自の認識論を駆使して論理的に解明したのがほかならぬ南郷継正でした。

 20年たって、ようやくすこし自分の頭でものが言えるレベルになりました。四半世紀たって、どうにか<映画>表現の匂いが嗅げるようになりました。それもこれも弁証法のおかげです。三浦先生と南郷先生の学恩には、はかりしれぬものを感じます。

 わたしが掴みえたのは、両巨匠の九牛の一毛のそのまたほんの影のゆらぎほどにしかすぎません。
 その意味で、わたしの表現したレベルから、巨頭の影の大きさをうかつに即断されないことを、ただ願うばかりです。
 生きているうちには、もうすこし近づけそうにおもえます。なにか胸がワクワクしてきます。この心あるうちに、そして生あるうちに、さらなる一歩の飛躍をとげたいものです。

 ある高名なピアニストの至言をもって、この文章をしめくくっておきたいとおもいます。

 「わたしはマスター(主人・達人)となるまでは奴隷であった」