映像表現、撮影からの旅立ち   

 過去に発表した執筆ストックのファイルを捜しておりますが、大きなバインド分が見つかりません。どうやら、家捜しをしなければ出てくる様子にありません。

 この間、すこし捜しはじめていた途上で、書きかけたままにすっかり忘れていたテキスト仕立て風の文章がひょっこりと見つかりました。2年ぐらいまえに執筆したものでしょうか。

 執筆途上の素描段階で、混乱がひそみ、かつ中途半端ですが、映像ワークショップの趣旨にはフィットしたところがあるかなと感じ、なにか時機をえた発見にはおもえました。

 いささかなりとも、参考にしていただけるところがありますれば幸いです。


  * * * * * * * * * * * * * * * 


<(1)映像をつくるための道具だて>


 映像をつくろう。オリジナルな個性あふれる映像をめざそうではないか。

 どうすればよいか。まずなによりも、つくるための道具を手にしなければならない。文章なら紙と鉛筆だ。映像をつくるにはビデオカメラがなければならない。

 ビデオカメラでなければダメだ、ということではない。8mmフィルムのカメラだってかまわない。しかし撮ったあとの現像処理、編集から映写上映までの機材システム一切、それにランニングコストを考えると、よほどフィルムの映像質にこだわりでも持たぬ限り、手はじめにはビデオが最適だ。

 ビデオにはフィルムのような現像という工程がない。撮ってすぐ見れる、映像仕上がりを肉眼視しながら撮れる、という利点がある。だいいちビデオカメラなら、このごろでは、家庭のなかに一台ほどはころがっていることが多い。

 しかし、どういう規格のビデオでもOK、ということではない。できればミニDVカメラであってほしい。いまの市販カメラは大半がこの機種だ。あとあとの処理を考えると、デジタル信号のビデオカメラが必須条件といってよい。

 なければ購入するほかないが、自宅戸棚のかたすみにひっそりとしまわれてでもいれば、あらたに買う必要はなくなる。それを使えばよいことだ。ふところはおおいに助かる。

 さあ、カメラはなんとか手に入れた。どうにかこれで、撮ることだけはできる態勢が整った。

 しかし、撮ったままに見ることがわたしたちの最終目的ではない。さらに手を加え、並べかえ組みあげて映像作品とする。編集が必要だ。

 われわれがめざす映像は、自分だけが楽しむためのものではない。他人の目にさらして恥ずかしくない作品。「おもしろかった」となんとか声をかけてもらい、さらには感動を与え、賞賛の声を聞きとどけたい、そういう不遜な願いのこもった作品だ。

 その実現のためには、撮影した映像素材を検討し、無駄をそぎ落とし、鑑賞の意欲を高める映像構成を考え、音の効果を加え、編集調理したうえで提供しなければならない。その映像調理と聴覚効果の加算のための編集道具がどうしても不可欠となる。

 現在のビデオ編集はパソコンでおこなうのが常道だ。つまりパソコンが必要になる。これもいまではたいてい家庭にそなわっている。ただし、それで間に合う場合もあれば、ならぬ場合もある。編集するためには、ある程度高性能なパソコンのはたらきが要求される。

 20世紀時代のパソコン性能でビデオ編集をおこなうのは、正直かなり大変なことだった。が、21世紀に入ってからは性能がグーンとアップした。いまのパソコン性能でビデオ編集をおこなうには、ノートパソコンでも楽々こなせるパワーがそなわっている。ほんの数年まえには到底考えられなかったことだ。ほんとに、ハードの進歩にはものすごいものがある。

 それゆえ、家庭にあるパソコンがよほど古いものでない限り使えることになる。なければ? それは買ってもらうほかない。最新鋭機でなくてもちょっと型の古い中古で十分だ。

 最近のパソコンには、編集ソフトの簡易なものがほとんどついている。かなり精度がよい。パソコンがウィンドウズ機種であれば、「ムービーメーカー2」というマイクロソフト社の編集ソフトが無料でダウンロードできたりもする。ちょっとした映像編集ならこれでほとんどこなせる。なかなかのすぐれものだ。

 しかし、映像のつなぎはもうすこし懲りたいと考えるむきもあろう。鑑賞体験を豊かに設計するには、音の効果を多彩に考えた編集も大切だ。となれば、編集用の専門ソフトは、ぜひとも購入しなければならない。

 この際注意しなければならぬのは、パソコン性能に見合ったソフトを選ばねばならないことだ。高度な機能をもつソフトを購入しても、自分のパソコン性能では使えない場合がある。そうしたパソコンの知識がおぼつかないようなら、ソフト購入先の店員に、自前のパソコン機種名をしっかりと伝え、パソコンの能力を調べてもらい、そのソフトが使えるかいなかを納得のいくまで問いただす必要がある。

 以上の機材の購入は、カメラとパソコンを中古でまかなうとすると、15万円ほどで最低なんとかなる勘定だ。まあこれくらいなら、一汗かけばどうにかできる範囲だろう。



<(2)映像表現の大衆化>


 動く映像の時代というのは映画とともにはじまった。19世紀末のことだ。いまにつながる35ミリ幅のフィルムを使用する撮影上映システムだ。

 映画をつくるためには、人件費ばかりでなく機材やフィルムにも膨大な経費がかかる。もとより、映画というあらたな表現の維持と発展をささえたのは、鑑賞に支払われた観衆の対価だった。けれども、その制作を観衆個々の主体の表現として実現することなど、その時代には夢のまた夢だった。

 その道で生計を支えるのではない生活者が、映像表現と取り組むためには、その生活余剰でまかなえる映像機材システムが必要だ。安価でとりあつかいやすいカメラとランニングコストのかからぬ記録媒材がぜひにも要求される。

 露出のことも、シャッタースピードも、はたまた記録媒材の装填の技術など、そんな専門知識と技能の習得をすっとばしても、カメラのスイッチを押せばともかくちゃんとした映像が写る。そういうぜいたくな欲求が満たされなければならない。

 それがぜいたくな欲求だ、などとはいまではだれも思っていない。あたりまえに実現をみている現実の一コマにすぎぬ。だがそれが実現をみるまでには、人間の歴史的な認識の深まりと膨大な技術の累積がそこにあったという現実は、わきまえておいてよいことだと思う。

 そう思えるだけでも、自分の発明でもないカメラを使えることのありがたさ、自分がただちに映像表現を謳歌できる喜びを、歴史的なものとしてかみしめられるにちがいない。

 わたしたちは、いかにもよき時代に生をうけた。



<(3)撮ることのまえに>


 カメラを握りしめる。いよいよ撮影だ。ワクワクする。最低必要な知識はカメラスイッチ位置の確認だけ。電源を入れ、カメラを握りしめ、ファインダーに目をあて、指をスイッチ位置にそおーっと置く。あとは押すだけ? いや待てよ。一体なにを撮ればよいのか、どんな対象を撮りたいと自分は思っているのだろうか。

 もとより、撮りたい対象が心のうちにはっきりしていれば、それを撮ればよい。しかし、そうでない場合もある。つくりたい映像のイメージが朦朧として、自分自身つかみとれていない。

 わたしたちは20世紀以来の映像の時代を生きている。この頭のなかには、参考とする映像見本にことかかないだけの分量がつめこまれている。

 しかし見わたせば、その模倣の実現には、いまのわたしたちの撮影条件はあまりにもかけはなれている。なにもかもが個人商店でまかなわねばならない状況だ。しかも、それらの見本は未整理のまま、断片的に頭にほうりこまれているにすぎない。悪くいえばガラクタだ。

 それらの断片を頭のなかであれこれつむぎあわせたところで、いきものとして、容易にうごめいてくれるわけもない。自分の世界につながる映像の必然が、どこにも見出せていないからだ。映像の有機的なつらなりの仕上がりが見わたせる頭が、いかんせん、まだつくられていない。

 その頭をつくるために、これから撮影ととりくむことにしたい。そういう目的をもって撮影をおこなう。作品をつくるための撮影ではなく、撮影技能を身につけ、さらに自分の個性美を発見していく。そのための撮影実習だ。絵画でいえばデッサンの習得にも似ている。そう映像デッサン、それがここからのとりくみだ。

 自分が映像でなしえること、やりたいことが、その映像デッサンのなかで明瞭に見えてくる。自分なりの映像ビジョンをいだけるようになる。それをかなえる実習をめざす。

 空想を空想のままにとどめず、実現可能なリアルさで映像作品を想像しうるようにする。映像質の実現性がしっかりと頭に描けるようにする。そういう現実的創造力を養うことにつなげようではないか。

 映像作品は、映像表現力がその死活を大きくになう。作品質をささえるおおもとのおおもととなる表現力だ。ただし映像表現力=撮影力ではない。映像には、撮影対象自体の表現力の反映がふくまれるし、構成表現という最重要の課題もある。そういう限定はあるけれども、撮影力はおおきな表現性を映像作品においてしめる。とくに、まるっぽ個人で映像作品をつくるには、ウェイトはグーンとますといってよい。

 撮影は、映像視覚の選択定着を実現させることだ。それはカメラ前の現実を撮るばかりでなく、その選択眼と美意識を反映した、カメラを持つ人間の精神を写しこむことになる。映像個々(ショット)のきわだった個性がそこにあらわれる。

 さあその一歩を、ここからはじめよう。



<(4)心とどまるところにカメラを向ける>


 カメラを持つ。スイッチ位置さえわかれば、テープを放り込めばとりあえずは撮れる。いまのビデオカメラはそうとうに薄暗いところでも写しこめるし、撮影できないところはほとんどない。目に入るほどのものはまず写る、と考えてよい。

 いたずらにカメラをなでまわしていてもラチはあかない。写したい心はふつふつと躍動しはじめている。いざ外へ、この足を踏み出そうではないか。自分の見たいものをカメラに撮りこむために、ちまたを縦横に探索する。ウの目タカの目の躍動がはじまる。

 あっ!これは、と思わず目をとめる。心ひかれる、もの・こと・象(かたち)がそこに発見される。自然の対象物であるかもしれぬ、人工の対象物であるかもしれぬ、あるいは人物・動物かもしれぬ。探し動きまわった心が、そこにふと目をとどめた。撮るにはおもしろいと感じた。その心象を心にしっかりと刻みつけておこう。

 遊覧の心がとまる。対象が定まる。そこが入り口だ。対象を見据える。撮る!撮る!撮る!さらに撮る! なんでもよい。手当たりしだい夢中になって撮る。そのものを撮りつくすほどに撮る。最初はなにもわからない。量が優先、それでよい。

 撮りたい!その気もちがわきあがるようにあること、それがはるかに大事だ。その心が不足すれば、映像は輝くためのまことを失う。

 ほんとうに夢中になると、自分のなかにふだんは顔を見せない心の内実があらわになりだす。そこまでいけばおもしろい。むろんそれを無理やりやらかす必要などさらさらない。自然にそうなればよいだけのことだ。

 撮影が一段落する。そのまま持ち帰らずに、その撮った映像をひとまずその場で確認してみよう。まずければ、もうひと押し撮りなおしがきくかもしれない。こういう芸当ができるのがビデオの強みだ。撮影したての映像を、その出会いの心象がくっきりと心にとどまるうちにチェックしてみることができる。

 写ったものは対象の現実光景とはなんらかのズレがある。必ずある。それが一般にさほど問題とならないのは、その近似的な映像光景と現実光景との差異を取りあげるほどの表現上の必要性が、その表現においては、そこまで要求されなかっただけのことにすぎない。それをここでは求めてみようではないか。現実光景と心象と実現映像との差異と連関の認識のうちに、表現向上のヒントは深くひそんでいる。

 映像光景と現実光景とが異なるということは、映像はときとして、現実光景を肉眼知覚する以上に美しく写しこむ場合がある、そういう可能性を暗示する。と同時にまたそれは、映像光景が現実光景以下にうすっぺらく写るという、もう片側の可能性をも暗示している。その映像操作へのはたらきかけを通じて、心象への接近と遠ざかりがあるのだが、それはひとまずおく。

 いま撮った実現映像は、はたしてどうだったか。映像をプレビューしてみよう。みるときのポイントはひとつ。他人が撮ったことのように客観的に自分の映像をみつめることだ。裏がえせば、他者の目で自分の映像をみつめるということになる。鏡に映るおのれの姿をつきはなしてみるように。

 それをうまくなしえなければどうなるのか。自己の思いこみをいたずらに映像におしつける妄想世界の住人になる。そしてそこに歩みをとどめてしまう危険性をひそませるのだ。そのことは、いささか以上に心しておいてよいことだと思う。

 しかしそうはいえども、自己映像の客観視は、そのつもりがあれば一挙にやりとげられるようなやわなことではない。はじめはどうしても、自己の実現映像に、おのれの実際的な労力と思いのたけがかぶさり、そのことに心歪められて自己映像をながめてしまうのだ。心象光景が、そのまま写りこんでいるものとひとりぎめしてしまいやすい。

 だからこそ、つとめてつとめてそうあろうと意志することが大切なのだ。その姿勢と積みあげが、やがては表現飛躍のための精神成長を芽吹かせることにつながるだろう。

 映像は現実光景の知覚とはつながりがあるが、それとはひとまず独立をみた映像視覚という別次元の表現現実である。ある種の映像の場合、対象の現実光景は、映像視覚をみちびきだす媒介の、そのほんの素材的役割をはたすにすぎないこともある。
 ならば、なによりも大事なのは、撮影表現された映像現実のほうなのであり、撮影条件と心象とが切り結ばれたありかたの認識なのだ。この意識と、そこからの認識が育っていかなければ、映像表現を深めることは至難といわねばならない。

 自己の映像は、はたしてどうだったか。

 冷静な目でながめ、なにか、その対象におのれの心をとどめた心象の一端とでもいうものがそこに写しこめていただろうか。現実光景よりも心象光景を、いまここでは重視しよう。そしてそれをこそ映像光景に実現する、だ。

 その実現をみた映像に、心象に叶うワンショットがほのみえるならば、それが部分としてでも輝いていたならば、そのきざしがあるならば、今日の撮影は成功中の大成功である。

 上手とか下手とかはもっと事後の話だ。たとえ、一般的には見栄えのよい映像がそこには写しこめていたとしても、そこに心象との結びつきが希薄ならば、評価の土俵にはあげぬがよい。なによりも映像化したかったのは、はじめにいだいた心象の側に原型があると思うからにほかならない。

 その対象を撮りたい、という衝動の根っこにある、その対象に自分の心が動いたという、その心を反映させてこその映像表現だとわたしは思う。

 心象の輝きのひとかけらがもしなかったら? 気力が残り、対象の撮影条件がそこに整っているならば、そこでもうひとふんばりしてみないか。

 覚えておいてほしい。その対象を撮りたいはげしい衝動がおきたとき、小ざかしいテクニックを超えて、あらわにあらわれようとするなにものかが出現することを。それをほんのすこしでも、原初の原初に体験しておいてほしいと思う。これを表現ではなく表出とよぶ。

 まあー、むつかしいことはいい。

 ともかくその体験は、なにげなくひょっこりとあらわれるかもしれない。が、ひょっとすると、もっともっと、とことん気の遠くなるほど、カメラを回さなければあらわれないかもしれない。

 やる気をくじくつもりでいっているのではない。

 ほんとうに撮りたいと思うものがあらわれたら、そこから表現技術が、もっと切迫した内的欲求とむすびついたものとして、あらわな浮上をみせる、その大事を告げたいのだ。

 表現技術とは、表現形式化の方法手順を客観的に対象化したものではあるのだが、形式には内容がともなってはじめていきものとなることを忘れてはならない。形のつくりあげかたが内容という精神をともなって、はじめて魂がこもるということを、おぼろげにでも会得してほしいのだ。そしてそれは冷暖自知よりほかない。だれがあなたになりかわり、その喉をかわかすこと、そしてその喉をうるおすことができえようか。

 表層的にうまくなることよりも、その認識をからだではっきりとつかみとることのほうが、はるかに優先して価値があることだとわたしには思える。