表現と表現性    

 表現と表現性とは、区別して語られなければなりません。

 映画表現と映画表現性とはちがった意味をもつものです。その混同がおこらぬよう、きっちりとどう違うのかを明確に弁別して使い分ける必要があります。

 そのヒントとして、弁証法弁証法性ということばがすでに区別されて語られていることを、みつめなおしておくことからはじめたいとおもいます。


 世界のもろもろの事象は、自然も社会も人間もまたその人間精神もすべて、たえず変動し変容しその蠢きをとどめることはありません。ある幅狭い時間のスパンのなかでは、たしかに固定的静止的な状態がおとずれますが、大きな目でみつめますと、世界は変動のなかにあるといえます。大きくは、ビッグバン以来の宇宙の膨張を頭におもいうかべてもらえばどうでしょう。「万物は流転する」「諸行無常」にほかなりません。

 ゆえに、世界の事象の一般的な構造は運動です。それを過程的であると表現します。過程的とは、そのありかたが不変的固定的なものではないということをあらわします。その過程的なものごとの一般的なありかたを抽象して、弁証法的存在というわけです。
 弁証法というのは、運動が対立した概念において統一的に把握される、つまり矛盾として認識される、その論理的に把握された認識のありかたをいいます。

 世界のもろもろの事象が弁証法的存在であり、それゆえ弁証法的な性格をそなえているわけです。この弁証法的な性格を弁証法性といいます。その弁証法性をわたしたちの認識に反映させたもの、それが弁証法です。

 弁証法は、世界の事象の矛盾のありかたを矛盾として把握し認識する思考法といえます。対立した概念を統一した認識だからです。というのも、運動の本質は論理的には矛盾として認識されるものなのです。たとえば運動とは、「そこにあると同時にそこにない」という矛盾というべきものです。考えを徹底的に煮つめていくとそうならざるをえません。哲学史的には、ギリシャのゼノンが、世界の実態を運動ととらえる認識の誤りであることを論証しようとして、この矛盾をするどく指摘し、その認識の不完全性を証明しようとしたわけです。

 しかし、世界が過程的存在であり、この矛盾を一般的性格としてそなえているとすると、この矛盾は、認識内において克服解消されるべき否定的なものではなく、運動のありかたの論理的認識として積極的に肯定されるべきものとなります。この矛盾認識のありかたが弁証法です。

 ゆえに、弁証法とは認識であり、その認識は世界の基本的性格としてそなわっている弁証法性の反映なのです。これが、弁証法弁証法性との弁別です。客観としての弁証法性のその認識への反映が弁証法といえるでしょう。

 つまり弁証法性は世界の性格であり客観的事象です。世界の現実です。その性格を認識にとらえた弁証法とは、わたしたち脳髄の運動がつくりだす認識としてその世界の過程的な性格を反映させ、それを法則としてとらえた観念的姿なのです。そしてこの脳髄も、実在する世界のひとつであり、その脳髄が生み出す精神(=認識)もまた、弁証法性をそなえていることとなるのです。


 この考え方を参考に、表現と表現性とをながめてみましょう。映画表現と映画表現性とはどう違うのか。カギは現実と認識との連関のありかたにあるようです。

 では弁証法性と弁証法のことばの関係のように、表現性が現実事象で、表現がその反映としての認識でしょうか。

 ちょっとおかしいですね。これではピンときません。逆みたいですね。直感にしたがい、逆視界からながめてみることにしましょう。

 そのまえに、表現には二義あることを認識しておきましょう。表現することを「表現」とあらわすばあいと、具体的結果、つまり表現されたもの、その表現形象の具体的ありかたを指示して「表現」とするばあいです。

 いずれにせよ、「表現」は、具体的ありかた、現実そのものを指し示しています。そうすると表現は、現実の表現過程でありかつ実現された表現形象であるといえます。つまり、現実的対象です。

 それに対して表現性はこれまでに表現実現されたもろもろの堆積のなかから、その表現過程と表現されたもの、そしてその効果の一般的性格を抽象し認識したものである、といえることとなるのではないでしょうか。

 かくて、表現は具体的現実であり、その現実から抽象したその表現個有の性格の認識、それが表現性であるとなります。心の腑に落ちる位置づけになったようですね。

 とすると、表現とは事実であり、この事実をながめ認識するなかからその表現の性格が一般化されてとらえられるようになり、そこに表現性ということばが生まれる必然が生じてくることなります。表現が客観的事実であり、表現性が認識ということになります。

 これでどうやら、ことばの弁別だけは一段落したといえそうです。


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 ことばの定義を確定するにいたる試行錯誤の過程をすこし記述してみました。

 まだ、明確に弁別の必然がみずからの内側に生じていないことの弱さを露呈してしまっておりますが、その検討はまた後日を期したいとおもいます。

 明晰に語ることは到底できませんでしたが、ことばを、かように吟味にかけることの必要性は、自分自身の頭を曖昧にしない、直感的にことばを使って、論理的踏みはずしをおこなわないということでは、大切な作業におもいます。

 ことばをもっと厳密に使えるよう、その概念内容をより明晰になしうるようつとめていきたいものです。

 むろん、感情をゆりおこす必要に迫られる場にのぞむ場合は、その使用にこだわる限りではありません。曖昧語が生きる局面もあるのです。これも弁証法思考ですわなぁー。