映像視想メモ(11)  

<映像視想メモ・第11回> 1981年執筆


 「風たちの午後」(80・16ミリ)を観た。矢崎仁司さんが演出したこの劇映画は、アクションの細やかなディティールをつとめて大切に撮り込んだ、作家の気合のこめられた作品であった。

 主役のナツコ役を演じた綾セツコの演技が光っている。

 同じ部屋に暮らすミツという女性をひそかに焦がれるという、ちょっと実存感を持たせにくい役どころを素直に生きている。外と内との双方に焦点の定まらぬ、どこを見つめているのかその心理が定かでない眼差しがいい。時折、どのような演出上の仕掛けからこんな表情を引き出したのか、と思いつまらされてしまうような、微妙だがまぎれようのない顔付きというやつに出くわす。

 策を弄してナツコは、ミツと彼氏との仲を無理矢理に引き裂いてしまうが、ミツにやがてそのことは知れ、ナツコがしかたなく部屋を出ていくシークエンスがある。まとめた荷物と共に押入れからにじり出たナツコは、流しの前で立ち止まり、やおら歯を磨きはじめる。歯を磨きながら大きなカバンを引きずって街路へと出てゆく。そのナツコの表情やアクションに、微妙で複雑な心理の綾を渾身の力をこめて彫り込んでゆく作家の細やかな眼というものを感じさせられた。役者と演出家との間にピーンと張りつめた緊張感があり、それが画面にダイレクトに反映されている。その緊張のたしかさが、ぼくに、この作家を信じるに足るものがあると思わせた。いってしまえばそれは、役者の表情を気魄をこめて見破っている作家が、そこにあることを見てとらせたのだ。

 上手下手ではない。作家の中に蠢いているものがはっきりとたしかであれば、“だめだ”という一言が、役者に対して発せられ、自己に向かって切りこまれる。そうした作業を経なければ、現れるはずもない表情やアクションというものがある。演出とは結果ではない。そうした結果が現れる過程そのものの仕掛けこそが演出なのだ。この映画には、矢崎さんのそうした個有の眼が、くっきりと輝いていた。

 しかし、そうした作家の眼差しが、映画の全編を等しくおおいつくせているわけでは決してない。脇役の人物には、いささか類型化した、将棋の駒のように動かしたな、と思わせる人物像が見てとれる。物語りの中で、重要な役割りを担っているミツの彼氏の存在感は、そんな風に希薄だった。だが、この作家は、決してそれを小手先でごまかそうとはしていない。できえるにもかかわらずだ。その正直さに、ぼくはむしろ。この作家の黙秘の責任感というものを強く感じとった。作家には見えている。それでよいことではないのか。



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 (5)で書いた山本政志さんたちとの交流の延長上で、矢崎仁司さんとのまじわりもはじまりました。

 「風たちの午後」はナイーブで、その時代を感じさせるいい映画でした。試写のあと、映画談義にひときわ盛り上がり、それ以後、彼との親密な交流がはじまることとなりました。

 誰しものことですが、彼もまた次回作を模索してはいたものの進展をみせず、十年間、呻吟する時期が続きます。そんな彼を見かねて、背中をドーンと押す形で、ほんのしょっぱなの、つくらざるをえない環境をつくるという手助けを、すこしだけおこないました。「三月のライオン」がそれです。途中で彼との間に確執が生じ、わたしはリタイア。そのあとはプロデューサーの西村隆さんに、ただただおんぶをさせて退いてしまいました。西村さんは、この連載のきっかけとなった「自主映画なんて知らないよ」のコーナーをプガジャで担当していたかたです。

 その後、矢崎さんとの交流は断ち切れました。