映像視想メモ(10)  

<映像視想メモ・第10回> 1981年執筆


 こちらの肺腑がえぐりとられるほどの、深い、息のつまるような感動というやうつは、一体どこからやってくるものだろうか。眼の前のスクリーンに映し出されている頼りなげな映像に注視することをやめ、ぼくはしきりとそんなことを考えこんでいた。フィルムの無駄遣いと言い切ってもさほどあてずっぽとは思えぬほどの意気地のない映画が、そこには映し出されている。そもそも、始原的なパッションの一片もほの見えぬフィルムに、一体何の対他的価値が生じるものか。もしみずからが観客としてその映画を是としているなら、いやそうでなければ、こんな映画を人前に晒そうなどという厚かましさは生じまいが、ここいらあたりでよかろうとみずからの能力を甘く見限り、途中で腰をしゃがみこませているかのような、そんな体たらくな作家精神がいやが応にも眼に余る。

 すくなくとも、みずからのギリギリの地平にまでひた走り、いまにもぶったおれようとするその精一杯のところを作品で提示しているのならいざ知らず、フィルムとの真摯な格闘も行わず、映画を撮るという行為になにがしかのファッショナブルでプライド的な価値を見い出し、映画に対する情熱というよりは映画を撮ることのカッコ良さのほうに魅せられているような、そんな作品はもううんざりだ。当人は映画をさも分かったもののように思い込んではいるものの、作品を見れば、いままでその人間が、いかに映画を皮相なレベルでしか掬いとってこなかったのかがよく分かる。単にシナリオのカット割り程度にしかすぎない代物を映画だなどと思ってもらいたくはないのだ。だいいち、映画技術・演出技術に対する独自の内省や思索がかつてあったのかどうか、本人の意思とは裏腹に、ぼくにはそれすら疑問に思えてくる。作家たらんと欲するものは、映画作品を含んだ広大な現実視覚のうちに、個有の映像視覚を発見し洞察するという努力を、不断に怠るべきではない。その行為が自己の生活空間の中であたりまえ化してしまうほどにだ。

 ぼくが心より見たい映画は、そうした道程をくぐり抜けたあなた自身の映画なのであって、あなたが他人からその手管をかすめとってきた映像美意識や、カメラワークや、おきまりのストーリーパターンといった、いびつな既製服ではさらさらないのだ。
 映画作品は、作家が映画をどのようにとらえてきたのか、その一つの解答であるともぼくは思う。映画に魅せられた限り、その魅せられた地平で精一杯ギリギリのところを提示してほしい。認めがたい、にもかかわらず思わず許してしまう作品を。



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 ひと月間、あれこれ自主製作作品を見まわり、西部警察もどきの拙劣なアクションものや、おきまりパターンの青春ものの模造品の連続には、正直、辟易させられていました。オリジナルなアイデアがない。どこかで誰かがやったことの、それも低劣なうわすべりにすぎぬまねごとでした。そこでは、形すら原型に似せるための努力が欠けていました。幼児が、意味のわからない大人の歌手のまねをヘタクソに唄うだけの、児戯めいた所業でした。

 どうしてもつくり残しておきたいという内発的な熱情が、ほとほと希薄です。他者の魂へと飛びこむ気魄というものが、そこにはしかと見えません。こんなことに自分の時間が浪費されてしまったのかという怒りが、ここにきて爆発してしまいました。編集部からはダメ押しが出ましたけれど、強引にねじ込んで掲載にこぎつけました。