映像視想メモ(9)  

<映像視想メモ・第9回> 1981年執筆


“映画は観客を楽しませるものであってほしい”という主張がある。楽しさというものへの個的差異を無反省に考えている点を問いつめたい心はあるが、基本的には間違っているとはいえない主張だと思う。その発言が時におやっと思うのは、その人の推奨する映画がぼくの水準ではまったくつまらなかったり、その人の作った映画が一向楽しめる映画でもなんでもなかったときだ。そんな映画とつきあうハメに陥るにつけ、せめて見ている間だけでも見あきぬ映画を見せて貰いたいとはつくづく思う。

 そんなひねくれ心が胸の内にくすぶり続けていたおり、東京の奇友磯野好司さんから一本のビデオが送り届けられてきた。その中には手塚真さんの最新作「MOMENT」(81・8ミリ)が収録されていた。

 見終ったあとにずしりと余韻を響かせてくれるという類の映画ではさらさらないが、見ている間決して見あきさせない楽しめる映画には仕立てあげられている。映画づくりを楽しみながらフィルムを織りこんでいったその才覚には、ぶっている人間には見受けられぬさわやかな印象を受けとった。見ていて気恥かしくなるような31才の閉鎖的な感性ごときにはおかまいなしに無邪気に映画とたわむれているこの19才の映画少年の姿には、ほほえましいというよりは、心配して声をかけたくなるようなあっけらかんとした開放感がある。

 登場人物の多さとは無関係に、その人物配列はきわめて単純だ。寿命があと3日と占師に宣告された・・・・なんてとても信じられない女子高生ポッキーと、病院を抜け出した心臓病で死にかけている少年タミオとの出会いをからみの糸として、爆弾男や奇妙きてれつな学友、まともな恋人たちのあだなおりなすラブロマンスに、ミュージカルをごった煮したスペクタクルなコミカル巨編というのがその仕立てあがりである。登場人物はどれも極端にカリカチュアされたゼンマイ仕掛けの性格をふりあてられ、さながら手塚さんの人物オモチャ箱をひっくり返して見せてくれたかのような趣を呈している。きっと手塚さんは現実が漫画的に見えてしまうほどに漫画的性格の好青年であるのだろう。まったく現実味を持たないこれらの登場人物たちの大半はラストの爆発でその生命を吹っとばしてしまうことにはなるのだが、センチメンタルなその描出にもかかわらず一向その気になれないのは、オモチャの代わりはいくらもあるだろうという現実的な安心感がこちらの側には居すわっているからなのだろう。いつかこの心を手塚さんに打ち砕いて貰いたいというメッセージだけは、この好青年に伝えておきたいとぼくは思っているのだが。



 * * * * * * * * * * * * * * *



 手塚真さんのお父さんは、ご存知、天才・手塚治虫氏。ともかく、天才の息子というのは大変。比較されたくないのにいつも比較されてしまう。そういう宿命をいやおうなく背負ってしまいます。それはおかしいとおもいつつ、でもルノワールの息子はすぐれた映画監督だったしなぁー、と、ふと比較してしまうものではあるようです。

 手塚治虫氏は、好奇心がずばぬけてゆたかな人で、あれほどの忙しいかたでしたのに、メジャーでないアニメの新作展にも、招かれるとわざわざ出向いてくださる奇特なかたでした。そのオーラはものすごいもので、遠目にすぎて、それが手塚治虫と分からぬまえから、そのあたり一面が輝いてみえた印象が鮮烈に残っています。そんな体験はあとにもさきにもその限りでした。