映像視想メモ(12)  

<映像視想メモ・第12回> 1981年執筆


 映画を見終えた後、自心の中で、はじめ見た折に生じた精神への衝撃がいくばくも持続しえずに、時の隔たりの内に風化してゆく作品がある。それとは逆に、見たばかりの折はさほどとも意識されなかったわずかばかりの衝撃の種子が、時間の深まりの中で、芽を吹き心の内に根をはりめぐらしてゆくといった成長する映画作品がある。自己のほんの幅狭い映画体験の中でも、この見たときの感じというやつと、その後、自心の中に生じきたった実在感との間に奇妙な齟齬をきたしている作品が少なからずある。何がどうなのかはよく判らない。ただばくは、時間を隔ててのち自己内に沈潜して残像するその映画の質感を、自己の真の映像受容体感であったのだと認得しているにすぎない。しかし、それはぼくにあって、たしかなものと信ずるに足る感性ではあるようだ。

 さて、6月のオルタネティブの上映会で催された、主として東京の若手作家連の近作展は面白かった。およそその作品群は、力のこめられた映像とのそれぞれの格闘ぶりをぼくの眼に残していってくれたが、就中、自己の偏奇な嗜好性から云って、山口保章さんの「冬のスフィンクス」(81・8ミリ)が、ぼくは一番に気に入った。ゆるやかな対象の動感とカメラワークのうちに、カットごとのフェードイン・フェードアウトを巧みにあやつりながら、記憶の残像を生ぜしめようというその手管は、細微なたくらみと映像へのしたたかな感受性をよりどころに、空寂とした思もちが一点で凝着したかのような視平から、その心象光景を綴り編んでゆく。昼と夜との窓外の風景をひそやかにオーバーラップして、最後のフェードアウトの寸前に夜景の窓枠の縁がほんのりと見え残るといった巧みな計算がそこにはある。

 一カット一カットに工夫が見え、その驚きが刻印されはするが、なぜか、見終ったあとの印象は奇妙に薄れてゆく。つきつめるところ、この作品には、決定的ななにものかが欠けている。おそらく作家も、なにほどかそのことに気づいているのではないか。ただぼく同様、実体的な解答を明晰にひっつかんではいないだけのことだ。そんな風に思えた。

 それはおそらく、巧偽においてはいかようにも超え難い一点である。我々の魂の奥底をぐいとひっつかんで離さない力は、いつも、その技巧をはたらかす実体そのものに内在してある。決定的なものは解き明かしきれない。心の内に活きてこそ働くものは、みずからが体感し体得するほかはない。やりとげえるはずだと思う。遠いところで見知らぬ人間が、そのぎらりと立ち現れる一瞬を待ち望んでいる。



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 考えながら書き、書きながら考える。頭のなかにできあがったものを発表するのではなく、頭のなかに形成されつつあるものを逃さずに表現実現させる。どの文章でも、そうした面をはらむのですが、この文章においてはとくにそうだったようにおもいます。いまでも映像作品を編集している途上は、まさしくそういう格闘です。直観的美意識と推敲の折り重なりです。

 この文章の前半の展望は、いまも自分の鑑賞基調となっている感性です。なにかとらえがたく奥深いところで、無自覚な生命の美意識とでも称すべきものが、いい知れず微妙に作動していることを感じさせられます。人間は、自分が自覚している以上に、はるかに精妙な生命であるということなのでしょう。