映像視想メモ(13)  

<映像視想メモ・最終回> 1981年執筆


 あるとき、4・5人ばかりの映画ファンと、いましがた見たキューブリックの「二〇〇一年宇宙の旅」についてわいわいと語らっていた所、SF映画マニアのもの知り屋の一人が、やおら、その映画で使われた宇宙船模型の話をしはじめた。

 「この〇〇〇〇の宇宙船は××センチと×××センチと××××センチのミニチュアが使用され・・・・・・」とその詳しいこと詳しいこと。どこか外国のマニア雑誌からでも仕入れた知識をまき散らかして、そのことが、あたかも「二〇〇一年宇宙の旅」という映画の隠された秘密をあばき出すかのごとき口ぶりで、楽しげに話をすすめてゆく。ばくはそのときふいと思った。キューブリックはそんなことを当の昔に忘れているだろう。いや、最初からあずかり知らぬところであったかもしれない。一体そんな只の知識が、この作品の何を解き明かしえるのかと。

 映画の楽しみ方は個人個人千差万別であろう。魅せられた映画の端から端まですっかり知り尽くしたいと願うマニアの気持ちは、一つの楽しみ方として分からぬではない。それはそれでよい。ただ錯覚して貰っては困ると思うのは、手品の種が分かれば、それでその手品の面白さまでが飲み込めたように思いこんでしまう杜撰な短絡精神なのだ。映像として現われ出たものは、すこしまじめに映画を齧じれば、まずそこそこは把握できる。どのような役者配置で、どのように動かしながら、どのポジションから、およそどれぐらいのレンズを使って、どのような照明であったのかが。できあがった世界ははっきりとしている。しかし、どんな精神がどのような発想から一体何を顕わにしたいがゆえにいかなる経路を通じてそうした映像世界が定着されえたのか、それを見い出すことは難かしい。分析し分析しぬいて、なおかつ手に余るところが見えぬと本当の面白味が分からない。手品の種をあらかじめ見知っていようと、何度見ても驚かされることがある。一体それが何であるのかを考えてみるべきではないか。さもなければ、手品を見る楽しみが、手品の種をあばきたてるという姑息なところへ沈み込んでしまう。

 その技法をまねるよりは、その精神のありようをこそ見習うべき作家は数多い。映画をまなぶとは、技法の使われ方をせっせと仕入れることには尽きぬのだ。技法は作家の魂と分かちがたく結びついていなければ小手先の技巧にすぎぬ。そのところが紙一重の肝要な一点であると思う。

 えらそうなことを書き綴ってはきたものの、正直、書きえたことと自身の実体との狭間は飛び超え難く乖離している。いつか自らの作品が、その狭間を埋めねばならないだろう。



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 このコーナーの最終回。ようやく一般劇映画をまな板にのせて、それをダシにしながら、自分の真情を吐露しました。
 実体と思考との乖離は、その後も埋まらず、鋏状の開きをさらに拡大しながら現在にいたっています。その課題は、ついに四半世紀ごしとなりました。

「いつか自らの作品が、その狭間を埋めねばならない」、ということに尽きるのです。

「年たけて又こゆべしと思いきや命なりけりさよの中山」

 西行のごとく、さもありたきものです。涅槃にいたらぬまえに。