表現をなしうる人間頭脳の機能 

<表現という語彙>


 「表現」ということばが一般につかわれるとき、その語彙は、「表現する」という過程的なものを指示するばあいと、その表現したことの結果としてあらわれた「表現されたものやかたちのありかた」を指示するばあいとの両義があります。

 この意義のちがいは、表現ということばのつかわれた文章にあっては、そのことばのおかれた前後のありかた、つまり文脈においておよそ推測されますが、ことばに両義があり、それを弁別しなければならない必要がある以上、そのそれぞれの定義にもとづいた区別のなしうる語彙を用いなければ、内容意図の解釈を誤解におとしいれる危険を野ざらしするということになります。

 そこで、「表現する」ということを「表現創出」ということばとし、それが表現にいたる過程的なものであることをはっきりととらえられる語彙としてあらわします。また「表現されたもの」は、われわれの五感の対象となる物象であるゆえに「表現形象」とし、それが感覚対象の存在であることがわかるように、いいあらわしておくことといたします。


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<表現をなしうる人間頭脳の機能>


 人間は、なぜ表現するのでしょうか。いや、もうすこしさかのぼって、人間はなぜ表現できるのでしょうか。すこしばかりそのいきさつを省みておきたいとおもいます。

 人間は、まず物質的な存在です。この肉体というもの、脳髄をふくめてのこの身体が、なによりも人間であることの基体です。

 しかしまた人間は精神的実在でもあります。人間から、その精神性のゆたかなはたらきをのぞけば、これほどの地上の繁栄を人間はもちえなかったことは明白でしょう。人間の保持する肉体そのものだけをまな板にのせれば、凶暴な動物に対抗しうるほどのすぐれた備えはないに等しいものです。にもかかわらず、人間がこの地上の王者のごときふるまいがなしうるまでにいたれたのは、ひとえに、この精神の優越性ゆえにほかなりません。

 では、その人間の精神性とはなんでしょうか。結局それは、人間脳髄の特殊なはたらきに帰着することになります。

 人間、この高度に進化した地球動物の最先端生命体の、その脳細胞の機能は、他の動物種を凌駕するにたる、きわめて特殊なものでありました。他の動物種では生成できない、特殊なすぐれた認識機能を、人間は進化させることを果たしました。そのひとつが意識という機能です。

 意識は、自己の生成した認識(頭のなかの像)を脳細胞機能において観念的に自己対象化させ、それを認識自覚化することができるはたらきです。いわば鏡に認識を映してそれをながめるように、自己が生成した像(認識)を受容する認識を生成することができます。認識を構造的に駆使しうることが、人間において顕著に明瞭化したのです。
これは頭のなかでの像創出機能に階層が生じ、人間においてそれが特段に発達をとげたことを意味します。認識に階層が生じ、その認識内において、自己認識を認識するという認識の媒介過程を創出しうる機能がそなわることによって、人間は自分をみつめ、その行動を、意識によって規定していくことが可能となりました。一般的にいえば、自分のあたまのはたらきをみつめる自己認識機能をもつことができるようになったことにおいて、自分を自分とわかる存在となったのです。そして、はじめて地球動物種のなかで、心を把握できるようになったのです。ゆえに、心を持つ、ということを自覚しうる最初の動物ともなったのでした。それは、意識レベルで、心を持ったはじめての動物ということともなるのです。

 こうして人間は、自分の考えや思いを媒介的認識としてとらえることができることになり、それによって、自分の行為を客体として眺めることができるようにもなります。

 この認識を自己対象化して認識しうる認識機能において、人間はその認識的立場をも、自在に自由に、空想的な移行をさせることが可能となりました。他者の立場に空想的に身を置くことができるようにもなったのです。

 この自己対象化できる認識機能があるゆえに、人間には、表現が可能となりました。行動規定を意識によっておこなうことができるからであり、それが成り立たねば、表現はありえません。表現とは不表現とともにあることにおいて、表現たりえるからです。すなわち、表現しないことの契機を含めて、はじめて表現は成立するのです。これが人間固有の表現のありかたです。表現するとは、その表現をどう受けとめられるかの認識運動のなかにあります。ゆえに、他の動物種には厳密な意味での表現活動は成り立ちません。猿の人間まねの絵画ごっこ行為を、絵画表現ととらえることは、表現の本質をみつめていないがゆえに生じる誤謬のあらわれです。

 この表現の本質過程の意味と説明は、また別稿で展望することといたします。ともかくここでは、表現活動ができる動物としての人間というビジョンを、人間の認識機能面から、ひとまず認識しておいていただきたかったのです。


 表現そのものに、すこしばかり踏み込んでいきたいとおもいます。

 表現とは、自己が生成した認識の展望を、その認識を客体として受けとめられるように認識外に外化させることです。その媒介の形象を創出し、その形象を媒介させて、その原型の認識を追認識的に創出させるありかたです。

 どういうことじゃそれは、とお叱りが飛んできそうですね。すこしわかりやすく書きましょう。

 頭のなかに表現したいとの思いと像(認識)が浮かびます。それを、なんらかの形(動作・音・文字・絵・映像など)に写しかえて、それを表に現します。そのことによって、それを仲立ちとして、つくり手のあたまのなかの像(心情とか考えかたとか空想)をつかみとることができることとなります。

 この媒介の形象を創出することを、表現といいます。ただし、それは一般の規定で、わたし的には、この表現を受けとめる過程をふくめ広義に<表現>をとらえています。

 それはひとまずとして、この表現は、人間の生産活動のありかたのひとつであり、人間がその生活を人間らしく営むうえで欠かすことのできぬものです。人間は、相互に深く広範な協業関係にあり、肉体的にも精神的にも他者の産物を受け取ることによって、自己の生活を成り立たせています。この協業社会を維持するうえでは、表現は決定的な役割をはたしています。精神の相互の交流なくして、この協業関係は維持しえないのです。

 それゆえここでいう表現というのは、なにも芸術的な表現だけをいっているのではないことは自明でしょう。人間の生成するすべての表現、たとえば「おはよう」というあいさつのごとく、完結した自己世界を現わすのではない素朴な言語表現も、すべてふくまれるのです。
 こうした形象を人間が創出しなければならないのは、頭のなかの像、つまり精神そのものには、直接ふれるすべがないからです。それは像ですから、その像のありかたに接近しえるように、その像を原型として創出した物象化された形象を必要とします。これは自己自身に対してもおこるものです。日記的なありかたとか、覚書メモといった類の表現がそれです。

 この形象を介して、他者(自己のなかの空想他者でもあります。また日記等の場合には時間差のある自己を、いまの自己ならざるところの他者とするのです)の脳細胞がその形象を感覚的に認知するとともに、能動的にその自己ならざるものの認識のなかにわけいることができるようになります。こうしておこなわれる事実が示すことは、わたしたちの精神活動が表現形象を媒介して、精神的にゆたかな相互の交通関係を結ぶことをあらわします。

 その表現活動の特殊なありかたが芸術表現といわれるものです。

 芸術表現は、現実の生活を直接的に維持するためにではなく、媒介的に、その人間生活そのものを、精神的にゆたかに享受するための表現創作のありかたです。わたしたちはそこでは、他者の精神の奥深さやゆたかさやおもしろさを、他者の脳細胞の生みだすあらわれの形象を介して、その内容を自己のものとすることができ、そこに感動やよろこびや楽しみが湧きおこります。

 きょうはひとまずここまで。