ヘーゲル『美学講義』を読む  

 ヘーゲル端倪すべからざる人というほかありません。折にふれ、その『美学講義』をひもとくのですが、ただただ感嘆させられるばかりです。その本文に入るまえの入口にも達せぬほんの序論にも、ヘーゲルはいきづいています。

 ただしこの著作は、ヘーゲルの死後、弟子たちが講義の受講ノートをもとに構成したもので、ヘーゲルの直接の執筆になるものではありません。

 長谷川宏氏の翻訳をかかげ、その部分の感想を記した自分のノートを、ここにすこしだけ引用しておくことにいたします。



『美学講義』P5

まずもってきっぱりいえるのは、芸術の美は自然よりもすぐれているということです。というのも、芸術美は精神からうまれ、くりかえし精神からうまれる美であって、精神とその産物が自然とその現象よりもすぐれているのに見合って、芸術美も自然の美よりすぐれているのです。形式的にいえば、人の頭に浮かんでくるつまらぬ思いつきでさえも、そこに精神性と自由が働いている以上、あれこれの自然の産物よりすぐれている。むろん内容からすると、たとえば自然物たる太陽が絶対に必要な存在であり、とりとめのない思いつきは偶然に思いうかび、はかなく消えていくものではある。が、太陽のような自然存在は、それだけをとりだしてみると、ただそこにあるというだけの、内面的な自由や意識をもたないものだし、反対に、他の事物と必然的につながるものとして見るときは、それをそれだけで見ることはなく、したがって、そこには美がなりたちません。

(晶彬)

 表現という精神の対象化過程のない自然を、美の考察の対象から除外するヘーゲルの考察はするどい。

 「精神からうまれる」「形式と内容」「偶然と必然」「自由と意識」「それをそれだけで見ることはなく」

 ここだけでもわたしには天才的考察におもえる。ヘーゲルは生成の美をしっかりと見据えている。

 「それだけで見ることはできない」の指摘、じつにすばらしい!
 それだけを切り離して見る人間を見よ。美を映す人間の美意識をこそ見よ。

 下記の一節がヘーゲルの真骨頂、考察の筋道のたて方の見本でもある。
 「太陽のような自然存在は、それだけをとりだしてみると、ただそこにあるというだけの、内面的な自由や意識をもたないものだし、反対に、他の事物と必然的につながるものとして見るときは、それをそれだけで見ることはなく、したがって、そこには美がなりたちません」

 この文章だけでも数年の検討を要する内容がある。おそるべしヘーゲル


『美学講義』P6

精神と芸術美が自然よりもすぐれているというのは、たんに外面的な比較にもとづいていわれることではない。むしろ、精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在であって、すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえるのです。その意味で、自然の美は精神に属する美の照り返しにすぎず、その実質が精神のうちに求められるような、不完全で不十分な美です。

(晶彬)

 観念論の立場からの言であり、「精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在」とは、わたしの立場からはならないが、「すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえる」というのは、鑑賞論の展開に十分脱皮させうる内実の深さがある。わたしの立場から鑑賞論的に変容させれば「すぐれた精神の見出したものであることによって」となる。

「自然の美は精神に属する美の照り返しにすぎず」人間精神とすれば納得。「その実質が精神のうちに求められるような、不完全で不十分な美です」すばらしい。

 この「精神」は、ヘーゲルにあっては人間にあるとともに人間外にある世界の根源だが、わたしたちは人間精神にとどまる。その条件差異が決定的違いであるだけだ。

 ただしヘーゲルの「精神」は、また、世界をつらぬき通す論理でもあるから、単純に唯物論的反映論の視点で書き換え、それでことすませないよう、その真意への目配りを怠らないことが肝要。


『美学講義』P6

美学の対象を芸術に限定するのは、(略)自然物の美しさという視点をあえてとりあげ、自然美について体系的に記述した学問を作りあげようなどとは、だれも考えないからです。役に立つという視点をあえてとりあげ、たとえば病気のときに使える自然物(薬用物質)の学問を考えだし、治療に役立つ鉱物や化学製品や植物や動物について記述するといったことはおこなわれるが、自然界を美の観点からまとめあげ評価するといったことは、だれもあえておこなわない。自然美というと、あまりに漠然としていて基準がなく、その観点から自然をまとめあげることなど、人の興味をかきたてないのです。

(晶彬)

 学問対象として自然美一般という抽出基準がもちえないとのヘーゲルの断定。ここまで考察のめくばりを怠らないその思索の徹底性。それを朝めしまえに軽くやりのけるヘーゲルの実力。