プガジャの時代   


 いまでは、右をみても左をみても情報誌は花盛り。なにがいつどこでどうおこなわれているのか、そのイベントを見つけだすことにとまどうことはありません。

 でも、わたしが映画を猛烈に見はじめた1960年代末期には、まだそんな便利なものはありませんでした。映画プログラムの情報一つにしても、新聞や入手したチラシから、そのバラバラの情報を自分なりに収集していく作業が必要でした。

 どんな人間も、金と閑とを両方つごうよく所有していることはありません。映画鑑賞するにしても、その生活環境のなかで見ることのできる作品を比較したうえで、自分が最善とおもう選択をおこないたいと願うのは当然です。

 そうしたおもいを抱く人間で閑な人間といえば、やはり学生です。映画好きの学生が、来月の映画館プログラム情報だけを収集し、ガリ版刷りや青焼きコピーしたものをつくって領布したりすることが、わたしのまわりではじまりました。ペラペラのもので、一冊30円とか50円で配布していました。むろん市販ではありません。そのころ大阪では、いくつかの映画サークルの上映会が定期的におこなわれていましたから、その上映会で、直接、作り手本人から買い入れるのです。

 そうした情報集積したものを欲する購買層が、映画以外の分野、演劇や音楽においても、多くあらわれはじめてきた時代でした。

 イベントは、メジャーなものばかりではありません。一般紙ではとりあげないマイナーなイベントも数多くあります。その当時はアングラ(アンダーグラウンド)といわれていましたが、そういう情報入手となるとチラシが主です。チラシを集めて整理することが情報通でもありました。

 そうした労力を削減してくれる、分野をまたいだ情報を集積したミニコミ誌は、やはり待望されているものでした。

 そういう需要を吸いあげ、きっちりと印刷された、一般市販の形態をとった冊子が、日本においてはじめての情報誌として誕生をみました。「月刊プレイガイド」です。じつはこれはすぐにポシャり、その軌道を生かしてすぐさま再生を見たのが「プレイガイドジャーナル」(通称・プガジャ)でした。

 ありがたかったですね。多くのイベントが一覧でき、そのイベントをおこなう人間のコメントが掲載されたり、特集が組まれたり、そのイベントがどういうものであったのかの批評も掲載される。そんな冊子でした。

 単にイベント情報を集めただけでなく、マイナーな表現や表現者を支えていこうとする姿勢をもった冊子でした。

 こうして、情報誌が情報だけの掲載であることを求められる80年代後半まで、「プレイガイドジャーナル」は、関西圏のマイナー表現者を支える冊子であり続けました。

 そういう冊子ですから、わたしも結構書かせてもらいました。またイベント評としても、作品をいくたびか取りあげていただきましたし、8mmの特集を組んでいただいたりしたこともありました。

 それらはすべて単発でしたが、80年のはじめ、連載の依頼が飛びこんできました。

 それまで、西村隆さんという方が自主映画のイベント評を連載していたのですが、急遽東京へ転居することになり、そのあとをなんとか、ということでした。

 一回目は西村さんのままに、「自主映画なんて知らないよ」というコーナー名を引継いで連載開始、二回目からは自分のコーナー名をつけてもらって「映像視想メモ」として一年余連載させていただきました。

 ここしばらく、そのときの連載を、順々にここに掲載していきたいとおもいます。見たことも、また見ることもできない作品評には、興味がもてないかもしれませんが、なにとぞご勘弁ください。


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<自主映画なんて知らないよ・11>

 岩田和雄さんの「WHO」(75)とまた出会うことができた。最近、つまらないフィルムばかりを見て食あたり気味であった僕には、ちょうど良い解毒剤の役割をはたしてくれてありがたかった。

 6月の初め、瀬戸に在住の映像作家フィルム・シンジケート(岩田兄弟の共通の作家名)の岩田雄二さんを関西に招いて、その仲間たちの8ミリ作品をごく内輪に見る機会を持った。8本ばかり見せてもらったなかで「WHO」はひときわの輝きを見せて僕の中をよぎっていった。

 縁があって何度となく見る機会を重ねている作品なのに、見るたびに、自分の中にまだこんな感受性が残っていたのかとあやしむほど、新鮮で深い驚きがよみがえってくる。

 ギィーコカッタン、ギィーコカッタンと得体の知れない響きが耳に舞い込んでくる。一体なんの音なのかと息をつめて画面を見入っていると、極端なハイキーから緩慢にしぼり込まれてゆく画面には、どうやらその音の主(ぬし)らしい間欠的に回転をくり返すメリーゴーランド風のオモチャがアップで見えはじめる。固定したカメラは岩田さんの視線そのものに同化したかのようにじーっと対象を見据え、その眼差しがはりつめた鋭利な緊張感となってわれわれの眼をそらさせない。映像に強い吸引力があるのだ。長いが決して弛緩することのない岩田さん特有の間合いをおいて、再びしぼりが緩慢に開け込まれてゆく。タイトルが静かにささやくように挿入されてくる。こんなすべり出しではじまる「WHO」は、同様の技法で映像をレトリックしてゆきながら、幼児の寝姿のロングショット、母親に抱きかかえられた幼児のアップショットと一つまた一つと織り込んでゆく。こうしてつづられた全篇は、主要なカットがわずか十カットにも満たない。

 つまらないと感じる人間には、おそらく退屈きわまりない映画かも知れない。だが、同質の緊張感が画面の端から端まで間断なくはりめぐらされていることが感じられなければ、この映画をたしかに見たとはいえないのではないだろうか。一体、作家がどんな作業をみづからに課してきたがゆえにこのような映像が撮り切れるようになったのか、そのことに思いが至らねば、この映画の深さは見えてこない。

 幸いなことに“オルフェの袋小路”が、フィルム・シンジケートの上映会を企画中とのことだ。そのおりに、「WHO」とまた出会うことがかなえばうれしく思う。


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 フィルム・シンジケートは、日本の8mm映像表現者のなかでも最重要の作家です。映画ファンとして映画をはじめたのではなく美術からの出発だったということもあるのでしょう、シャープな構図づくりは、当時、抜きん出てすばらしいものでした。

 弟の雄二さんは、ダイナミックな映像構成が魅力で、冬の夜空の雪降る光景を生態生命観のなかに昇華させた「銀虫」は、すばらしく魅力的な作品でした。

 兄の和雄さんを、ここでは採りあげています。

 雄二さんを動態的とすると、和雄さんは静態的です。静かで内省的で、事物への同化を視線として定着させる方向を、しだいに持ちはじめました。

 「WHO」は、おそらくその頂点にある作品です。それとともに、日本の8mm表現史上、もっとも高峰に位置づけられる作品だとおもいます。

 この作品は、ある種予感の映画でした。こういうことは書くべきではないのかもしれませんが、この作品に写りこんでいる乳児は、幾年かののち病死します。この作品にただようはりつめた緊張感は、その予感の気配であるとしかいいようのないものを感じます。

 この作品は残念ながら、それが公開されることは、将来的にも訪れない可能性が高いでしょう。和雄さんは、いまはすべての作品を封印しておられるからです。もういちど見ておきたい、いろいろなことを映像に確認しておきたいという気持はつのりますが、いまはいかんともなしえません。時の移ろいのなかで、封印が融解されるのを待つほかはないのでしょう。