映像視想メモ(1)   

 1978年の夏、アニメ作家・相原信洋さんを講師として大阪に招き、アニメの実践制作講座・アニメ塾が催されました。じつは、わたしがその仕掛け人でした。そこに20人ばかりの人たちが参加し、アニメーションの個人表現を熱心に学ばれました。その俊英のひとりが山元るりこさんでした。

 その後の山元さんの活躍はみなさんようくご存知。ずぅーと第一線でつくり続けられ、教育の方面にも力を発揮、現在KAVCの映像ワークショップの講師も担当していらっしゃいます。

 知り合いだからということで、この作品を採りあげたのではありません。作品として、そこに心惹かれるものがあったがゆえのことです。

 アニメ塾参加者は、山元さん以外にも、いまでもつくり続けていらっしゃる方が幾人かおられ、企画時、それを願ってはおりましたものの、まさしくそれが実現を見、主催者冥利につきるものとなりました。



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<映像視想メモ・第1回>


 制作講座が活発に催され、アニメを志す人たちがとみに増えているが、残念なことに、初心の意欲を見失わずに作り続けていく人たちはごくわずかだ。それでも、ぼくの視野のおよぶ限られたなかでも、真摯に作り続けてゆくであろうと目(もく)される人たちが何人かいて随分と心強い気持ちにさせられる。山元るりこさんもそうした一人に数えあげて間違いのないアニメ作家だとぼくは思っている。すくなくとも「ブロッケンの亡霊」(80・8ミリ)は、そんな思いを抱かせてくれる作品であった。

 マッチ箱をぽつりぽつりと並べたような街並がゆるやかにパンされてゆく。ビルや電信柱やポストの影たちが地面にさざなみをうって蠢いており、その街影から影を持たない少女がさびしげにあらわれる。地面に手を触れて自分に影がないことをいぶかしがる少女の前を、猫が長く影を垂れて横切ってゆく。

 ありえない世界を、作家の内的なイマジネーションとして信じこませるに足る詩的抒情性を、この作品は導入部から秘めている。それを支えているのは、簡素で無駄のない、それでいてやわらかくあたたかみのある描線と間断のないしっかりとしたアニメートの手腕とである。たしかに「ブロッケンの亡霊」は、有無を言わせず実によく動く。だが、その物語展開は凡庸といってよい。

 少女が太陽に溶解するシークエンスを契機として、少女にも影があらわれる。しかし、それは影としてまとわりつく怪物で散々に少女をいたぶる。少女はやっとのことで怪物を退治するが、退治した影が怪物ではなくもう一人の自分になってしまうという話である。

 誰でもが一度は思いつきそうなお話で掘り下げが不足しているし、映像の展開にもどうにも無理だと思われる強引な縫い合わせが眼に余る箇所を見受けるが、そういう欠点を、まあ、そこまで言わなくともいいじゃあないかと思わせてあまりあるのが、少女の表情に注ぎこまれた、すぐれて魅力的なアニメートの冴えである。

 まゆげも鼻も口もない眼とまぶたのみの描出で、少女の内的世界を的確に表情に反映させて、それは見事である。とくに、影の怪物がもう一人の自分に変容する折の、驚いて胸に手をあてがい、まばたきをするその細やかな表情は秀逸であった。簡潔な描線で豊かに描き切る、その力量は並々ならぬ。欠点は欠点としてそれなりの重みをもって見えてはくるが、やがて自己の映像観の深まりのなかで、自覚的に克服していただくことを祈って、今はなによりも一人の注視すべきアニメ作家の誕生に敬意を表したいと思う。