映像視想メモ(5)   

<映像視想メモ・第5回> 1980年執筆


 映画を見終わったあとで、その作品を幾度となく頭の中の空想映画館に上映しては、自己の感情のざわめきの由来をはっきりさせてやりたいと、ひとしきり精出すことがある。無駄な徒労だと知りつつも、そうした感情が自身の内から湧き起こってくる根拠をたずねあててみたいという衝動に駆られてしまうのだ。一本の映画と触れあったのち、それが作品を目撃したことの一つの責任であるかのように、多かれ少なかれ、そうした作業をまとわりつかせてしまっているもののようだ。

 前宣伝にと、東京からやってきた一本の映画とも、またそんな風に意識をたたかわせてみた。山本政志さんの「聖(セント)テロリズム」(80・8ミリ)という作品とである。

 戯れにテロをくり返す少女、夫婦ストリッパーの物語、中年男の陰惨な家庭劇、原因不明の殺戮死体・・・・等々、いくつかの並行プロットをほとんど交じえることなしに、フィルムだけを錯綜させ、ひっつなげてゆくという思い切った構成を持つこの作品は、個々のショットに、時折、“はっ”と思わせる印象深さを見せてはくれるものの、多分に分裂的で、しかもそれを一つの映像世界観と示しえるほどの拡がりや深さを感じさせてはくれなかった。そうした散漫な後味を残しながら、それでいて、プロットの異なるショットとショットが部分的に癒着を起こしてしまったかのような、不思議な気分が漂っているのが、なんとも、奇妙といえば奇妙だ。

 言い切ってしまえば、この映画は、個々のプロットがしっかりとした熟成を見せるまでに、邪悪な熱情にせき込まれた手によってもぎとられた作品なのだ。作家が、みずからの内部にはらんでいるもの正鵠につかみとるまえに、爆発が起こってしまっている。

 「聖テロリズム」には、どこかそうしたもの足りなさを感じさせながら、その反面、個々のディティールのうちにキラリと光る可能性をはらんだ含みがほの見え、それが、なにかしら、これは・・・・といった期待を抱かせてくれるのだ。

 それはこの作品の底に脈々とたたえられてある、邪悪な毒気を含んだほとばしるエネルギーのゆえである。作家が、どんな風にしてこのような毒気を自己の人生において育んでいったものか、ぼくは知らない。こののち、彼が、いかにこの毒気をみずからが培い成長してゆくものか、あるいは、みずからの毒気にみずからが病んでしまうものか、さらにぼくは知らない。「次回作ではなく、次々回作を期待してほしい」という、山本さんがみずからを叱咤する意志の言葉を、ぼくは、単純にうのみにしておこうと思うだけだ。


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 この作品以前の山本映画に出演し、みずからも映画をつくっていたスタッフの一人が、これよりまえに大阪にやってきたことがありました。個性的で、すこしならずおかしい人でした。その折、その体験した制作現場の話しを聞く機会があって、けっこう二人して盛りあがりました。そのときのわたしの印象が、先方にはすこぶるよかったようで、大阪に足をのばしたら是非会うべき人物だ、とその周りの連中に吹き込んだようです。そういうことがあって、山本政志さんから上映以前に連絡があったのです。

 その後の山本政志さんは、ご存知の活躍ぶり。「闇のカーニバル」で世界のインディーズ映画に影響を与え、「ロビンソンの庭」をつくり、それらの作品は、インディーズの世界では、世界的なスケールで認知される存在になりました。

 この文章は、わたしのお気に入りのひとつですが、山本さんもいたく気に入ったようで、自分のチラシにそのまま無断借用していることをのちほど知りました。が、誤植をそのまま転写していたのには苦笑させられました。この転載では、その箇所はきっちりと修正してあります。