『芸術とはどういうものか』を読む・1  


 三浦つとむの『芸術とはどういうものか』(至誠堂)を読んでいきたいとおもいます。

 この書は、現在絶版になっていて、古書店でないと手に入りません。目にされたことのあるかたはあまりいないでしょう。この場では絶無かもしれません。

 そういうこともあって、この著作の引用をおおくしながら、コメントをつけて読んでいきたいとおもいます。

 なによりも、あらためてもういちどはじめから、という自身への気もちが、そこには深くひそんでいます。これはそのために書きこみ始めた、わたしのノートからの転載です。

 まだ、ほんのしょっぱな、でも根幹となる大切な箇所です。続きもまたあらわしていきたいとおもいますが、それはさていつのことになることやら。


  * * * * * * * * * * * * * * *


『芸術とはどういうものか』P9

私たちが芸術というものを科学的に理解しようと思うなら、それが生まれてくる基盤である人間の生活そのものを科学的にほり下げて理解すべきだ

(晶彬)

 これはずーと頭に残っている文章だ。人間生活をほり下げよ、という指示の新鮮さ。

 人間はなぜ芸術を欲するのか。その解明にいたるには、人間生活をほり下げねばならない、ということがしっかりと明示されている。


『芸術とはどういうものか』P9・10

カニは甲羅に似せて穴を掘る」といわれているが、(略)人間にしてもカニと同じことをしている(略)。もちろんちがっている面もあって、同じ面とちがっている面とをむすびつけて問題にする必要がある。そのちがいの決定的な点は、カニは自分の頭の中に前もって穴のかたちを考えていないのに反して、私たち(は頭の中につくろうとする)かたちを思い浮べ、これを設計図と(略)するような、精神的な活動を行っている事実である。

(晶彬)

 「同じ面とちがっている面とをむすびつけて問題にする必要」おおー、この弁証法の躍如!

 頭の中の像から人間生産が出発することの指摘のするどさ。あたりまえのことの記述のようだけれども、過程的な必然として、そのことを明確に構造理解しているかどうかで、そこに雲泥の差が生じる。


『芸術とはどういうものか』P11

(衣服とか調理とか)人間的な尺度を生産物に押しつける

(晶彬)

 抜粋の短文だが、人間生産のありかたのみごとな描出。


『芸術とはどういうものか』P11

文は人なり」という、(略) レターペーパーの上につくられた物質的なインクのかたちも、その背後に書き手の頭の中の精神的な存在がいわば「原型」として用意されていたわけで、読み手はこの物質的なかたちを手がかりにして書き手の思っていること訴えたいことをつかむことができる。この場合も、人間精神のありかたが、外部の物質的なかたちとして押しつけられたものといっていい。

(晶彬)

 表現の創出から受容にいたる過程の的確な記述。

「原型」ということばの卓抜さ。決して完成体(具象)として思いうかべられているということではない。表象的な認識であることが多くふくまれる現実をわきまえよ。

「物質への押しつけ」という唯物論的立場堅持による観念論との過程の相違の描出。


『芸術とはどういうものか』P11・12

以上にのべたような、指摘されればだれでもすぐ納得できるいろいろな事実を、いま一歩ほり下げて考えてみよう。これら全体に共通するものがなにであるかをつかんでみよう。それはほかでもない。人間の意識的な・目的を持った・創造は、人間の「分身」をつくりだすことを意味しているのだという理解である。「分身」をつくりだすことは、人間が自己を外部にうつしかえることにほかならないから、このごろ流行している「疎外」とか「自己疎外」とかいう問題も、実はこの「分身」づくりの問題にからんでいるのである。

(晶彬)

 前段は引用の必要がないともいえるが、多くの事実を集積させ、そこをつらぬく共通項を見つけるという、帰納的推論の科学的認識過程をおさえたやさしい記述に魅力を感じる。

 「人間の意識的な・目的を持った・創造」これを深く考察すること。その全貌をくっきりと頭に思い描けるようになることが現状のわが課題。

 「分身=自己を外部にうつしかえる」ということ。疎外の押さえもよい。要は表現とは自己の認識外への外化であるということが含意される。しかし、ここでの分身の意は即表現形象ではないということは、よくよく吟味しておかねばダメ。ここは人間生活というもっと幅ひろい展望からの考察だ。

 「「分身」づくり」ということばのおもしろさ、その内容性。

 この文章の全容は、人間の創造的生産物一切にかかわるということだ。たとえば薬にも発明品にも料理にもそれは適用される。表現やいわんや芸術品に限定してとらえてはダメ。かくして、実用物への表現性の浸透の考察もまた、表現的創造と非表現的創造としての相互浸透として考察することを可能ならしめる。


『芸術とはどういうものか』P13・14

 俳優は、意識的に劇中の人物になるよう要求されている。尾上松緑は舞台では弁慶になり、エリザベス・テーラーキャメラの前ではクレオパトラになる。俳優は、与えられた空想の世界の人物になるのであるから、ここに俳優の空想的な「分身」として弁慶やクレオパトラが出現するわけであり、観客もまたこの「分身」を鑑賞するわけである。この「分身」の特徴は、現実の俳優と別のところに存在しないという点にある。現実には依然として同じ俳優でありながら、舞台やキャメラの前では同時に空想の世界の人物でもあるという、二重人格的なかたちをとって空想的な「分身」がつくりだされるところに、演技といわれるものの本質がある。俳優は衣裳をつけメーキャップをする。女形は、男性でありながら女性の空想的な「分身」をつくりだし、女のカツラをかぶったり振袖を着たりしている。これは、空想的な「分身」のありかたが、精神的な二重人格にとどまらないで、現実に目に見えるありかたとして浸透してきたものと理解されなければならない。落語家が、高座で落語を語りながら、熊さん・八さん・おかみさん・ご隠居さんと、物語中の人物をつぎつぎと演じていくのも、俳優の場合と同じく空想的な「分身」をつくりだすことなのだが、衣裳をつけたりメーキャップをほどこしたりしていないところが俳優とちがっている。

(晶彬)

 この「分身」演技論は、論理的展望を与える点ではすばらしい。実践上はあまり役立たないが。その克服は課題。

「二重人格的なかたちをとって空想的な「分身」がつくりだされるところに、演技といわれるものの本質がある。」

 うなずくほかない。演技とはなにかがこのことばでとてもすっきりと頭におさまる。あたりまえに聞こえてしまうほどのことばで、大変な内容を孕んでいる。

 浸透の論理の適用の文章も要注目。いわく、

「空想的な「分身」のありかたが、精神的な二重人格にとどまらないで、現実に見えるありかたとして浸透してきたものと理解されなければならない。」

 この現実の実体構造は、もっと深く考察をすすめていくべきであろう。複合した空想の媒介的なありかたのケースの浸透もしっかりとみつめておくべきこと。


『芸術とはどういうものか』P14・15

 人間のつくりだす「分身」は、社会関係あるいは所有関係の中におかれている。(略)映画の監督やキャメラマンや俳優は、映画会社にやとわれていて、会社のキャメラやフィルムを使って映画をつくりあげるのであるから、できあがった作品は会社のものになってしまう。このように、社会関係あるいは所有関係は「分身」のありかたを左右するばかりでなく、ひいてはつくりかたにまで影響をおよぼしてくる。

(晶彬)

 表現論的な考察はわたしなりにすすめているが、この社会関係における考察はほとんどお留守状態。もっとひろい視野が必要であることを教えられる。

「社会関係あるいは所有関係は「分身」のありかたを左右するばかりでなく、ひいてはつくりかたにまで影響をおよぼしてくる。」

 このことばを反芻するだけで、おおきく見えてくるものがある。プロデューサー論を展開する論理要素ともなる。


『芸術とはどういうものか』P15

現在では社会関係がゆがんでいるために、人間の「分身」にはこのような(麻薬や兵器)反人間的な性格さえ与えられているとはいうものの、「分身」全体を大きな観点からながめその本来の性格を考えてみるならば、それらは人間の生活をささえ高めていくためにつくりだされているのである。

(晶彬)

 基本的にはそうだと思うが、この「社会関係のゆがみ」の解消が、はたしていかなるビジョンにおいて達成されるとするのか。ここからは、そのビジョンの厚みがうかがえない。


『芸術とはどういうものか』P16

 「分身」は人間の生活のさまざまな分野でそれぞれ異なった役割を果たしている。住宅・家具・衣服などは、人間のまわりをとりかこんだり人間に密着したりしてその肉体を保護し、活動や休息を援助してくれる「分身」である。箸・フォーク・ナイフ・ノコギリ・ネジまわしなどは、手の延長であり、ふみ台・ハシゴなどは、足の延長であり、メガネ・望遠鏡・顕微鏡などは、目の延長である。これらは人間が生まれつき持っている器官を延長し、補助してくれる「分身」である。洗濯機・掃除機・電気カミソリなどのように。モーターが人間にかわって動かしてくれる「分身」もつくられている。靴・下駄などはあるくときに人間の肉体を保護してくれる「分身」で、自転車は生きた人間や貨物を移動させるのに使う「分身」で、電車・自動車・航空機などは動力によって移動していく「分身」である。また手紙・報告・新聞・雑誌・書物・ラジオ・テレビなどのように、書き手や話し手の精神の「分身」として他の人間の精神にはたらきかけ、人間の精神をゆたかにして育てていくために使われるような種類のものもたくさんある。食べもの・飲みもの・栄養剤・薬品なども、人間の肉体にとけこみ合体することによって、生命を維持したり病気を治療したりする「分身」である。

 このように、「分身」は人間によって創造されながら、人間の生活をささえ、高め、育てていく。科学・技術の進歩は、「分身」の新しい種類をうみだし、量をゆたかにし、質を高めていくことになる。私たちは、かたちをかえた数かぎりない他の人間にとりまかれ、それらとむすびつきながら、毎日をくらしているのであり、すでに私たち自身の中にその意味で他の多くの人間が深くしみこんでいるのである。マルクスは、人間の本質を「社会的諸関係のアンサンブル」だといったが、それはこのような「分身」との関係をふくめて理解されなければならない。

(晶彬)

 三浦つとむのいう「分身」がここで総覧される。この具体的展開はとても重要で、こういう綿密な類別と具体的な位置づけによって、わたしたちの認識におおきな厚みと明晰さがもたらされる。つまり、表象的な認識が膨らみ、構造的なものと具体的なものとが切りはなされずにその構造的な理解が頭にすっきりと導かれる。

 きっちりと類別されたこの展望が大切。おおよそではダメ。つねに考え尽くし位置づけること。つまり事実の構造に応じた構造的な理解をなすべくつとめることだ。

 表現論的にはつぎの文章が大事。

「手紙・報告・新聞・雑誌・書物・ラジオ・テレビなどのように、書き手や話し手の精神の「分身」として他の人間の精神にはたらきかけ、人間の精神をゆたかにして育てていくために使われるような種類のものもたくさんある。」

 上記をふくめ、人間関係の目にみえないありかたが、ここで一挙に浮上して実感されてくる。その「分身」の発展の条件にもふれられる。

 大切なのはつぎのくだり、

「私たちは、かたちをかえた数かぎりない他の人間にとりまかれ、それらとむすびつきながら、毎日をくらしているのであり、すでに私たち自身の中にその意味で他の多くの人間が深くしみこんでいるのである。」

 よくよく噛みしめて味わわなければならない文章。すばらしい。そしてそれは、

マルクスは、人間の本質を「社会的諸関係のアンサンブル」だといったが、それはこのような「分身」との関係をふくめて理解されなければならない。」

と、その典拠がきっちりと示される。「社会的諸関係のアンサンブル」マルクスのいずれの著作にあったことばだったか失念。


『芸術とはどういうものか』P17

これらの「分身」は、なにによってつくりだされるのか? いうもでもなく、人間の労働によってである。人間は大自然の中に、その一部としてあらわれたが、他の動物とちがって自然にむかってはたらきかけ、自然が与えてくれる素材に労働をそそぎこみ、自然を変化させて生活に必要なものをつくりだしていく。社会科学ではこれを労働の対象化と名づける。自然が与えてくれる素材に労働をそそぎこむのであるから、マルクスはこれを「自然の人間化」と名づけた。「人間化」すなわち人間以外に人間的な存在が、「分身」が出現するわけである。この「分身」を使ったり消費したりして人間の生活をささえ、高め、育てていくことは、とりもなおさず「分身」に対象化された労働をさらに人間自身に対象化することである。ことばを変えていうならば、人間から出ていった「分身」がふたたび人間に復帰することである。

(晶彬)

 「分身」の論理的な展望がみごとに示される。これが、三浦つとむのすさまじい実力である。このビジョンを自分のものとして自家薬籠中のものとしなければならない。

「労働の対象化」「自然の人間化=人間以外の人間的な存在の創造=分身」「対象化された労働をさらに人間自身に対象化する=人間から出ていった「分身」がふたたび人間に復帰する」

 「ふたたび人間に復帰する」じつに深い。ほんとうにしっかりつかみとり、しっかりとものにしなければならない。


『芸術とはどういうものか』P18

 生きた人間は肉体と精神を持っている。それゆえ、労働の対象化によって自然が「人間化」されて出現する「分身」も、やはりそれなりに肉体的な部分と精神的な部分とを持つことになる。ただここで注意しなければならないことは、精神的な部分というのはそこに精神そのものがあるという意味ではなくて、つくりだした人間の精神と関係があるという意味でしかない点である。もし、そこに精神があると解釈すれば、頭の中から精神がでていったことになり、観念論になってしまうから、この点をとりちがえてはならない。

(晶彬)

 この展開は、三浦つとむにしかなしえない。それでよかったの、とこちらが不安になるほどの明瞭さ。しかし論理の骨組みはがっちりとして、しかも不足と逸脱がない。名人わざ。

「肉体的な部分と精神的な部分」との弁別。部分ということばの重み。「分身」は部分が融合統一されてあるという事実のわきまえ。そのありようを異相において認識することが大事。

「精神的な部分というのはそこに精神そのものがあるという意味ではなくて、つくりだした人間精神と関係があるという意味でしかない点である。」

 この関係において精神が存在するのであって、精神そのものが物象化しているわけではない。この媒介を見失わないこと。「分身」の肉体的な部分とは、その媒介性、過程的ありかたがちがうということの区別の必要・必然からことばが選別されているということ。


『芸術とはどういうものか』P18

人間の肉体的な寸法を住宅や衣服にうつしかえ押しつけるということは、雪がつもっているところでころんだとき、雪に肉体的な寸法が押しつけられるのと区別しなければならない。雪に押しつけられるときには、直接押しつけられるのだが、住宅や衣服に押し付けられるときには、精神活動の媒介が存在しているからである。私たちは、まず頭脳をはたらかせて、人間の肉体のどの部分の寸法をとりあげるのか、それをどのようにして木材や布地にうつしかえるのか、考えをめぐらせ設計をすすめていく。この設計がすんでから、ノコギリやハサミを使って設計どおりの寸法のものをつくりだしていく。つまり、肉体的な寸法は一度頭脳の中を通過して、そこで意識的に変形されてから、住宅や衣服にうつしかえられるのである。(略)肉体的な部分を役立てる「分身」であっても、それはつくりだした人間の頭脳のはたらき、すなわち精神活動を媒介して実現するのであるから、そこには精神的な労働による精神的な創造が伴っている。この精神的な創造のあらわれとしての、「分身」の精神的な部分の存在と、その精神的な生活における役割とを無視してはならないことになる。

(晶彬)

 映画でいえば、フィルムは肉体的な部分、そのフィルム上に定着された表現としての光像は、精神的な部分である。この精神的な部分は肉体的な部分に支えられなければならない宿命を負い、肉体的部分のみではその精神的価値はゼロに等しい。

「押しつけ」を考察するとき、映像表現では偶出(機械的カニズムにおいて自然に写りこんだもの)ということをまな板にのせるとおもしろいかとおもう。精神(=人間頭脳)を媒介しないものもまたあらわれるという現象の事実的考察材料として。

 ゆえに映像表現とはいうものの、個別の撮影ショットには、偶出と表出と表現とが位相のちがいをみせながら、一画面上に統一され現象をみているのだという現実を認識しておかねばならない。

しかし、それはまたいつまでもそこにとどまるものではなく、自己の美意識をくぐりぬけその発表をみれば、それはまた表現へと止揚されるものとなる。この過程的な精神媒介をもみつめること。これが弁証法的表現発展の思考方法を、個人に適用したとらえかたである。


『芸術とはどういうものか』P19・20

 人間は生活しながら、現実のありかたをとらえたり、そこから空想や理想をつくったりしている。自分で精神的な産物をつくりだすだけでなく、他人の精神的な産物も与えられたり学びとったりしている。頭脳にはさまざまな精神的な産物がすでに貯えられているわけである。それゆえ、住宅や衣服についての設計図をつくるにしても、寸法だけの設計にとどまらないで、頭の中の精神的な産物がこれに関係することになり、その中で設計図が具体化されていく。その人の好む色が、壁や布地などに持ちこまれることになり、他人の住宅や衣服についての経験から、庭に池をつくったり草花をうえたり、裾に模様をほどこしたり胸にイニシァルを刺縫したりする。建築は実用を目的としていても、宗教や迷信からの影響で、ビルディングの屋上にお宮をつくって鳥居をかざったり、屋根に鬼瓦をのせたり、方角を気にして鬼門をよけたりする。このようにして、肉体的な部分を役立てる「分身」であっても、その精神的な部分が複雑化しふくれあがっていく。

(晶彬)

 映画的空想はどこからやってくるか、それはこの現実の生活のなかの映画体験からである。

「自分で精神的な産物をつくりだすだけでなく、他人の精神的な産物も与えられたり学びとったりしている。頭脳にはさまざまな精神的な産物がすでに貯えられているわけである。」

 簡潔にしてみごと。この基礎認識をどこまでも忘れないこと。
文章全体において三浦つとむは、「分身」そのものの精神的な部分と肉体的な部分が相互浸透をはたしていく過程を、懇切に具体的に描出している。

 人間生活自体が、精神的生活と肉体的生活との相対的な区別をみるものであり、それもまた相互浸透をはたしている。美味なる料理の食体験をひとつの例として思いうかべることができる。


『芸術とはどういうものか』P20・21

「健康な精神は健康な肉体にやどる」といわれているが、肉体の健康をそこなうと精神に影響がおよぶことは事実である。からだに異常があると、ものごとを深く考える気力もなくなっていく。脳に疾患があれば精神活動に障害をおこす。反対に「やまいは気から」ともいわれていて、心配ごとがあればからだがやせたり、恋わずらいのような精神からくる病気も起こったりする。とはいっても、健康でない人間の精神はすべて不健康で、誰もかれもゆがんだものの見かたをしているというわけではない。肉体的にはまったく健康でありながら、恋人にそむかれたり友人に裏切られたりしたために、精神的に大きく傷ついて人間観のゆがんでしまった人たちもいる。肉体と精神はむすびついて切りはなすことはできないし、たしかにたがいに影響し合っているのだが、それにもかかわらず一定の範囲では、肉体の活動と精神の活動とがそれぞれ独立して行われ、一方が他方と関係なしに変化できることも事実なのである。このような関係を、相対的な独立とよんでいる。

 相対的な独立ということは、肉体の活動と精神の活動との関係に見られるだけではなく、「分身」の肉体的な部分と精神的な部分との関係に見られる。

(晶彬)

 相対的独立。とてもつもなく重要な概念。この概念を意識的に用いることによって、統一のなかに弁別される相互対立運動の複雑なありかた、固定的であったり・相互浸透をおこしたり・よりはっきりと分裂したりというそのありかたが、統一的なビジョンのもとに論理的に展望されひもとかれていく。


『芸術とはどういうものか』P21・22

「分身」にも、(人間の精神的な生活と肉体的な生活との不調和と同様)これらに似たアンバランスの生まれる可能性があるのである。たとえば、衣服をとってみても、保温や衛生の点で不十分であるとか破れやすいとか、「分身」の肉体的な部分には大きな欠陥がありながら、そのスタイルや色彩や柄など、「分身」の精神的な部分では十分に工夫をこらしてあって、質的に高いようなものがある。また一方では、実用的に申しぶんのないものでありながら、見たところセンスのよくない、人の前では赤面したくなるようなみっともない品物もないではない。

 この「分身」の二つの部分の相対的な独立は、「分身」のおかれている歴史的な条件によってその評価が変わってくることからも、読みとることができる。これまでは一方の部分が重要視されて来たが、社会のありかたが変化してその部分はもはや重要視されなくなったとき、これまで比較的軽視されていた他方の部分がクローズアップされてこの部分で生命をたもつという事実である。

(晶彬)

 文章の論旨展開のお手本として、その表象を無理なく読み手にいだかせる手腕のすごみを感じる。骨が太く、論旨のデザインがきっちりなされたうえで、その例題として、いわば感性的な色彩がほどこされている。過不足なし。

 歴史的な移行の例示など、弁証法的思考の面目躍如。

 引用しなかったが、このあとに続く歴史的変容の例題は傑作である。

「新聞は読むためにつくられるのであるから、その精神的な部分を生命とするのだが、読んだあとの古新聞では精神的な部分のはたらきが意味を持たず、破いて便所へ持っていったり・・・・(略)。これは肉体的な部分、すなわち紙としてのはたらきがとりあげられているわけである。」

 精神的消費の完了ののちは物質的消費へと・・・・。昔は新聞紙で尻を拭いた時代がありました。小生も覚えがあります。歳ですねぇー。


『芸術とはどういうものか』P23・24

[精神的な交通のための表現]

 人間はひとりで生活しているのではないから、自分の思っていることやのぞんでいることを他の人間に伝えたり、他の人間の思っていることやのぞんでいることを自分も理解したり、する必要がある。人間の精神はたがいにふれ合い、むすびつき、交通する必要がある。けれども精神は脳からぬけだして、空中を飛行して、他の人間の脳に入りこむというわけにはいかない。精神から精神への直接のはたらきかけ、以心伝心ということは不可能である。それゆえ、精神はまずなにか物質的なものにはたらきかけ、その物質的なもので他の人間の耳・目・皮膚などの感覚器官に訴えるとか、身ぶりを示し文字を書いて目に訴えるとか、しなければならない。ときには、指で相手をつねったり、足で相手をけとばしたりして、気もちを伝えることも行われる。

 ここにつくりだされた物質的なかたちの背後には、思想や要求が存在しており、物質的なかたちをつくりだすこと自体が目的なのではなく、それを通じて思想や要求を正しく受けとめてもらうことが目的なのである。それゆえ、物質的なかたちには思想や要求を受けとめてもらうための手がかりを与えておくことが大切であって、この手がかりをどう工夫するかによってそのかたちも変わってくる。単純な要求を伝えるのにはそれほど困難はないが、複雑な思想を正しく受けとめてもらうためには手がかりのつくりかたをいろいろ工夫しなければならない。いずれにしても、頭の中で思っていることやのぞんでいることを、手がかりを工夫した物質的なかたちに表面化するという方法で、私たちは精神から精神へのはたらきかけを行っている。精神のありかたが、それに対応する物質のありかたにうつしかえられ、他の人たちにとっても理解できるように表面にあらわれたという意味で、これを表現とよぶことにしよう。それゆえ表現というときは、直接目には見えなくても、その背後にそれに対応する精神が存在したことを前提としているわけである。人間はこの表現によって精神的な交通を実現しているのだが、日常生活の中でもっとも多く行われている表現は、いうまでもなく音声で語ったり文字を記したりする言語とよばれる表現である。

(晶彬)

 三浦表現論のエッセンス。理論的要素がすじ道をたてて、よどみなくすべて語りつくされている。いずこも省略するわけにいかない。

 これだけのものを、三浦つとむを介さずに、独力で築きあげられるかというと、それは到底ムリだ。じつにこれは、三浦つとむにしかなしえない大変な労作なのだ。

 すべての表現に適応させうる、そのすごさ。これがほんまもんの実力。理解しやすい文章だからといって、簡単にすませてはいけない。とても、とても。


『芸術とはどういうものか』P24・25

 私たちが他の人間にむかって、精神的な交通をはじめよとするときには、「おーい」(略)などと、よびかけのことばを使うことが多い。(略)よびかけと同時に親しみの感情を示そうとするには、「おはよう」(略)などと、あいさつのことばを使っている。これらは「はやい」(略)などの事物のありかたを問題にしているのではなく、これらの意味と無関係ではないが、表現の重点は話し手の感情におかれているのであるから、昼ごろになって「おはよう」といわれると時刻のズレを感じはするが、その背後にある話し手の感情はすなおに受けとるのがふつうである。これらのよびかけの表現のあとで、「いっしょに行きましょう」(略)「千円貸してくれないか」などと語る場合には、その思っていることやのぞんでいることを具体的に表現して、聞き手の行動をうながしているのである。

 これらの言語は、いずれも実用的な表現である。

(晶彬)

 精神的な交通として、そのはじまりの日常風景の会話記述から、それらの表現のありかたが展開され、一括して実用的表現と規定される。この規定は三浦つとむ独自のもの。

 このあと言語における実用的表現の具体像のこと細かなオンパレードがある。

 つぎの節などは、三浦つとむの真骨頂。

「宗教の信者は、神さまや仏さまとの間にコミュニケーションが行われるものと思いこんでいる。ノリトをあげたりお題目をとなえたり願いごとをのべたりすることも、信者としては実用的な表現だということになろう。地図は実用的な表現のひとつであるが、信者にとっては天国や地獄の図解も実用的な表現だということになろう。」

 実用的な表現を枠狭くとらえてはならないということ。


『芸術とはどういうものか』P26

 若い恋人同士があまいことばをかわしているのは、二人にとってはたしかに実用的な表現である。だがこれらをそばで耳にしている第三者にとっては、心あたたまるものを感じたり、よろこびを味わったり、教訓をひきだしたりする表現である。つまり、当事者にとっての実用的な表現が、同時に第三者にとっては楽しむための表現でもあるという、矛盾が存在している

(晶彬)

 この弁証法の適用のみごとさ。実用的であると同時に非実用的、その条件のきっちりとした記述。

 性格を固定してあれかこれかと側面的にとらえて確定させてしまうと、条件においてはその性格が変化するという重要な対象認識のありかたを見失う。形而上学的思考の限界がここにある。

 楽しむための表現は鑑賞表現ということばで、別の著書では展開されていたりする。ただし鑑賞は、その五感の対象性は狭い。たとえば料理のおいしさ(美味)を味わう(楽しむ)ということはあるが、料理の鑑賞(盛り付けに関してはこのことばでもOK)とはいえないから、ここでは楽しむための表現ということばのほうが五感のすべてを押えており的確。

 料理などは、じつは肉体生活と精神生活の両方にまたがる対象なので、より大きな枠での弁証法的な思考が必要である。

 実用・非実用の表現性の移行の事実より、この表現区別が弁証法的なものであり、対象個々においても相対的に独立をみて相互浸透をはたしているものでもある、そういう内容をもった表現性格上の区別概念であることがわかるだろう。

 この両者の弁別は、表現考察をすすめていくうえできわめて重要な概念である。たとえば、映画制作者たちからみれば、あらたな表現技法がもられた作品は、鑑賞表現であるとともに、自己の表現に役立てられる効果技法を学ぶという実用表現でもある、そういう見通しがたてられもする。つまりそこでは、平板なる鑑賞ではなく構造的な体験であることが解明しうるのだ。理論的には、実用表現受容であるとともに鑑賞表現受容でもある、ということになる。

 このあとの段落には、上記のことが、かく展開されていた。


『芸術とはどういうものか』P27

 実用的な表現を非実用的な表現と区別することは必要であるが、実用的な表現はどこまでも実用的な表現でしかないのだときめてしまったのでは、このような事実(当事者の実用的な表現が、同時に第三者には楽しむための表現でもあること)を見のがすことになる。当事者にとってはあくまでも実用的ではあるが、第三者にとっては非実用的であって楽しむため表現ともなるという、弁証法的な矛盾した構造に注意しなければ、芸術の発生する必然性をとらえることができなくなる。

(晶彬)

 この段はつぎの一節が大事。

弁証法的な矛盾した構造に注意しなければ、芸術の発生する必然性をとらえることができなくなる。」

 じつに鋭利。発生のありかたが、弁証法思考によってこそきっちりと見据えられるという顕示。芸術が芸術として発生したケースばかりではなく、実用的表現の洗練のなかから芸術へと昇華されていったケースなどもおもい浮かべられるだろう。そのほかにも、いろいろな発生の形態を予測しえる。

 おおいに活用すべし。