映画=映像視覚の構成体   

 現在の映画は、その聴覚表現性をいったん捨象しますと、映像視覚(ショット・カット)の構成体として表現されているといえるでしょう。映画はなによりも、この視覚体験が命です。

 映像を構成するというこの表現のありかたは、いわば映画を映画たらしめる映画表現の根基とでもいうべきもので、表現世界を映画独自に形成する、もっとも根幹的な表現技法です。

 映画がその表現技法を確立したのは、もうずいぶんまえのことといわなければならないのですが、映画のはじまりの時点においては、それはそうではなかったのでした。

 そのはじまりの時点のありかたはいったん脇において、現在の映画作品は、もうそれはだれにも認知されているように、ショットがいくつもいくつもつながり、しばしショットはカットにまで解体され、その映像視覚を複雑かつ効果的に構成して作品化をみています。このショット・カットが構成された視覚体験を、わたしたちの視覚生活の体験と比較して、それが不自然と感じる人はほとんどいらっしゃらないとおもいます。

 映像視覚が構成されていることが、あたりまえな自然のことにおもえるほどのことですので、それが映画という表現の、しかも映画を映画たらしめている、ほとんど絶対的といってよい映画個有の表現技法であるのだという気づきは、映画表現にさほど興味のない一般の人たちには、あまり懐きえないことなのかもしれません。

 この映像構成表現のありかたを、わたしたちの現実の生身の肉眼視覚の体験を反省しつつふりかえってみますと、この映像構成が、いかにも不自然とおもえるところがあります。でもそれがいかにもごく自然な展開として受け入れられるのは、またどうしたことなのでしょうか。そこのところをすこしばかり考察しておきたいとおもいます。

 自然に感じるというのは認識の側のことですから、人間の認識のありかたにも踏みこんでいかねばなりません。しかしまずはその解明のために、わたしたちの現実の肉眼視覚というものを一度ふりかえっておくことが大切におもえます。

 われわれの肉眼は、いわずもがな、この生身のからだに付帯したものです。ですから、その視覚認識のありかたは、肉体が現実に存在する位置に制限されることになります。

 その視覚する地点の位置から、眼球を動かし、さらに首を動かし、からだをひねり、またからだをその地点から別の地点へと肉体位置を移動させることによって、視覚対象光景に対する視覚位置を変化させていきます。わたしたちの現実視覚は、こうした肉体運動とともに、視覚を変化させつつ知覚をおこなっていくこととなります。

 かくして、視覚光景を変えること自体は、当然わたしたちには可能なのですが、それは肉体が運動変化しえる範囲にかぎって、つまり肉体運動に規定されつつ視覚する、ということになります。あるいは現実時空での肉体変化という限界をになう視覚ということにもなります。その視覚眺望を瞬時に別の地点へと移行させることは、肉体をテレポートでもしないかぎりできない相談です。

 しかし劇映画的表現においては、同一時空との設定において、ある視覚位置の描出から瞬時に違った視覚地点の描出へとその位置を移行させることが、なんの不自然さもなく、それが映像世界の空想的現実として超個人的に成立したこととなっております。また劇映画でなくとも、複数のカメラを使用しさえすれば、その光景を切り替えて、まさしくほんとうの現実のなかでそれをおこなえてもしまうわけです。スポーツ中継などは、事実そのように映像表現していきます。

 さてこれらの事実は、一体なにを物語っているのでしょうか。

 それは、人間個々の視覚の現実限界を超越して、映像表現は超越的移行の光景を構成演出しうるということを示します。

 視覚位置を瞬時に移行しえる、つまりある種別意識の眼(視覚感)で、つぎからつぎへと眺めを変えた光景を構成しながら、多様で質的な異相をもった視覚を複合させ合成しつつ、統一的な印象を観客の認識のなかに創造していく表現が可能であるということとなります。

 この<超越的視覚の移行>という、個人感覚としては不自然な展開が自然に感じられる、つまり移行ごとにカメラ位置が変わったという違和感が生じないのは、またなぜなのでしょうか。

 人間は幾度かの映画体験に慣れてのち、つまり約束ごとを認識してのち(規範的認識の形成ののち)そうなるのではなく、これははじめからそうなのです。ここをすこし考えてみたいとおもいます。

 人間はその肉眼視覚のありかたからは、たしかに肉体の現実位置に限界づけられておりますが、観点(ものの見かた)の移行は認識内において日常茶飯事にその移行をおこないます。たとえば、集中してものをみつめるというのもそのひとつのありかたです。その見かたに対する見えかた(推測をふくむ)という認識をつかみとり、それを複合的に認識合成しながら、同一対象をわたしたちは構造的に認識化していきます。

 この複合認識を形成するための観点変化のありかたは、そこに瞬時の移行が認められます。いわゆる頭のきりかえというやつです。

 わたしたちは、肉眼的には対象を限定した視覚のなかに据えますが、その対象認識を能動的に掴みとろうとするなかにあっては、観点の異なるアプローチを瞬時にきりかえつつおこない、その視覚性を媒介として、多くの異なる認識を多様にくみとっていきます。

 この認識運動のありかたが、映像視覚点の超越的移行と対応をみせているということにもなるのです。それゆえに、そこに不自然感は生じないものと、いまわたしは考えております。

 むしろ、変化のない映像のありかたでは、わたしたちの認識は耐えきれなくさえなります。

 人間は、その観点移行において認識を複合的に合成しながら認識をゆたかに発展させていくわけですから、映像構成が平板であると、その観点移行の不足とも、感じてくるからといえる側面が認められます。側面というのは、その被写体自体の変化を、ここでは一旦捨象して考察をすすめているからです。

 いずれにせよ、人間認識のありかたと映像構成が、ある対応をみせていることは、おぼろげにでも認識いただけたのではとおもいます。

 それゆえに、複雑な映像構成の表現成功は、鑑賞者認識の限界をこえて感性認識をゆたかにはぐくむ効果を生じ、高度の芸術表現へと昇華することともなるわけです。

 こうした人間の認識のありかたと表現のありかたとが、どう対応しどう対応していないのかというとらえかたは、いままであまりとりあげられることのなかった、かなり大切な観点ではないかとおもいます。

 映像表現は、視覚の肉体的ありかたからは非現実的であるのだが、認識という精神的ありかたからは現実的である。そういう展望をもちえるでしょう。

 現実性と非現実性という観点、いろいろ考えをめぐらすことができるのではとおもいます。たとえば、伴奏音楽とは一体どういう表現なのかといった問題など、この考えかたをさらにすすめることのできる考察対象も多々あるのではないでしょうか。

 それはさておき、撮影におけるシーンのカット割りが、ここでのべたことの具体的ありかたのひとつであることはいわずもがなのことです。

 この構成的に映像視覚を組織化させる表現力は、映像演出において、現在、ウェート高い表現要素を形成しています。ある場合にはこの表現は、カメラマンがその発揮の役割をになうこともありますし、むろんそれが同一人であるばあいもあります。

 同一人であることは、わたしたちの映像表現(個人映像)においては常識レベルのことで、むしろ現実の常態といわねばならないことですから、これはいわずもがなのことであったかもしれません。


 さて、今日はほとんど問題提起ていどのあたりでギブアップです。

 肉眼視覚と映像視覚の差異については、本日提議の議題もふくめ、もっと多くの検討しなければならない課題がめじろ押しです。もうすこしまっとうな考察を展開できるよう、いささか以上に心していきたいものとおもいます。