―個人映画の沃野― 8mmの視界  

 とある劇団の人たちと親交が厚かった時代、その役者さんのひとりがミニコミ紙をつくっていて、そこに寄稿をたのまれました。もう四半世紀以上もまえのできごとです。

 論理的にはおかしいところが間々あり、そう言っちゃあーダメとおもわず声を出しかけてしまいます。それに、いま以上にヘタクソな文章には気恥ずかしさを禁じえませんが、その趣旨はある面、それなりにいまも評価しえるところがあるようにおもえます。

 若気のいたりですが、若さがないと書けないこともそこにはあります。その若き熱情だけは、いま読んでも、なんだか人ごとのようにうらやましく感じます。


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 <―個人映画の沃野― 8mmの視界>


 映画を自分のものにする一番の早道は、「自分の映画」をつくってみることだ。単純であたりまえのことのようだけれども、「ただの映画」ではなく、自分の映画というものがなかなかに撮り切れない。みんな、自分の映画をつくっているつもりでいて、結局は、正体不明の映画を排出しているにすぎない。

 自分がはっきり見えていない人間には、自分の感性のよりどころとなるものがなにも無い。自分のものと、自分でないものとの見極めがつかないのだ。それで、いきおい曖昧なものが出来上がってしまう。映像が曖昧なのではない、撮る人間の精神が曖昧なのだ。

 それは、実際の映画においてどんな風に見えてくるのか。たとえば、まったく違った精神の発露から生じたカットとカットを、見極めもせず、乱雑にも無理矢理つなげてしまう作家がいる。その結果、どうしようもない落差がカットとカットの狭間にほの見えてしまう。一見、場面はつながっているかのようでありながら、その実、フィルムの底を深く貫き抜けていなければならない作家精神のたて糸は、ズタズタに寸断されてしまうのだ。残念にも、そんな映画を眼にする機会があまりにも多すぎる。とくに、自主製作の映画には。

 けれども、そのことを怪しむ人が少ないのは、またどうしたわけなのだろう。考えてみるに、おおかたの観客にとって、映画は、映像を主体的に感じとってゆくものではなくて、ストーリーの語り口として映像を追っかけているにすぎないものなのだろう。その証拠に、ちょいとばかしストーリーの晦渋な映画に出会うと、途端に、“難解な映画”というレッテルを貼りつけてしまう。

 一例を上げれば、スタン・ブラッケージの『ドッグ・スター・マン』という映画は、ストーリーも映像の脈絡もなく、既成のあらゆる映画文法をすっかり無視しているにもかかわらず、作家のピーンとはりつめた緊張感が、間断なく、しかも同一のボルテージに満たされて、深くフィルムの底を一貫して流れわたっており、まさしくそのことそのものが、われわれの精神を震撼させる力となっているのだ。

 まったくそれは、純粋に映画体験以外のなにものでもないのだけれど、この映画が、まったく理解の埒外にあるという人達は、映像に対する感受性が少々鈍いのではないかと、僕には疑われるのだ。映画からストーリー性をはぎとってしまうと訳がわからなくなるというのは、あまりにも滑稽な話ではないか。それゆえ、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』は、かつて理解され得なかった映画であり、リバイバルされた今日も、やはり理解されにくい映画としてそびえ立っているのである。

 映画を、まず、その基本の映像から感得することが出来なければ、それは映画を観ていることには決してならないだろう。映画を映画として観るという、至極あたりまえのことが、あたりまえのこととして通らないのは残念なことだ。眼にする映画評の大半が、映画のことを語っているようなふりをしながら、映画の側には一歩も近寄らずに、手前味噌に映画を自身に引き寄せては、映画ストーリーの紹介と自身の感性を薬味にすり込んだ、ただの感想文に堕してしまっているのは情ない話だ。

 でもようく考えれば、この僕自身、始めっから映画を映画として感じとっていたわけじゃあない。そのことに、すっかり確信を抱けるようになったのは、ようやくここ2〜3年のことだ。あたりまえのことがあたりまえのこととしてすっかり身体に沁み込んでくるには、結構時間というものがかかるものらしい。

 そんな風に僕の身体に映画を深く沁み込ませてくれたものは、ほかでもない、僕と僕の8ミリだった。

 8ミリが16ミリや35ミリとかけ離れて、特異な映像制作システムをきわ立だせているのは、一つに経済的負担の軽さと、もう一つは扱いの簡便さにある。経済的負担が軽いということは、誰でも知っていることだけれども、そのことがどんな風に映画づくりに作用するのか、その意味に気づいている人は少ない。

 一般に映画づくりというと、劇映画の制作システムが、念頭に浮かぶのが普通だろう。一本の映画をつくるためには、大勢の人間達が寄り集って、一つの映画の構想に基いて映画作りを進めてゆく。たしかに、劇映画はそんな風につくられてゆく。そのために、はじめにどんな映画をつくるのか、シナリオを書き、綿密なプランを立て、スタッフと打ち合わせをかわし、すでに一本の映画の全体像がある程度見渡せる位置にきて、実際の撮影にとりかかってゆく。

 そうした映画の制作システムが出来上がっていった原因を検討してみると、そこには35ミリという世界を前提にして設定されている要素が思いのほか大きいのだ。35ミリは、個人が道楽に捻出できるような費用では、とても賄いきることはできない。どんなに安く見積もっても、二百万や三百万の金はフィルム代として右から左なのだ。ということは、そこには、近代的な商業的再生産の経済的システムが体制として備わっていなければ、つくり続けていくこと自体が成り立たないことを意味する。そうした条件の中で、たとえばシナリオというものは、映画のイメージをスタッフに伝え全体を統括する働きをするとともに、有効なフィルム使用と、余分なスタッフを省くためにも作用している。

 しかし、映画をつくるための絶対条件は、まずカメラとフィルムである。特殊に、フィルムにそのまま絵を書き込むという手法が存在するが、それは一つの変化形態であるから、ここでは問題にしない。カメラとフィルムがなければ、映画は成り立たない。このあたりまえのところから一歩を踏み出そう。

 シナリオを書くことから映画づくりの一歩を説く人がいる。それがごくあたりまえのことのように。しかし、映画とはシナリオを書かなければつくれないものじゃあない。映画は、もっと自由につくることが出来るものだ。シナリオがシナリオらしい形態を踏まえていようがなかろうが、大切なのは、自己のイメージを深め、確実に映像化してゆく能力を培うことである。そのために、文字化する方が自己のイメージを深めていきやすい人は、そうすれば良いだけのことだ。

 映画をつくるにはまず、カメラを持つことから始める。絵画を描こうとする人が絵筆を持つことから始めるように、そのことが、今まで常識として成り立たなかったのは、先に述べたように35ミリという世界が、フィルムを消費しながら映像的感性を磨いてゆくには、あまりにも膨大な費用がかさむからに他ならない。35ミリにはとても不可能でも、8ミリにはそのことが可能なのだし、8ミリとは元来そういう機能を持ったものとして存在しているのだ。

 そうした検討を果たさずに、無反省に35ミリの制作システムを8ミリの世界に導入し、独自の視界世界を歪めてしまっているのが、現在の状況である。8ミリの可能性とは、独自の視覚世界とはなにか? たとえば、アプリオリな映画の構想を一切否定し、事物に心を動かした瞬間・瞬間にカメラを感応させてゆくという風に映画を撮ってゆくことができるのは、現況では8ミリ以外に成立しようがない。どこからが始まりでもないし、どこまでが終わりでもない、ごく自然な人間の感情が素直に写し込まれてゆく映画、それが僕が8ミリに夢想する映画なのだ。

 8ミリの扱いの簡易さについて少し触れておきたい。8ミリが真に8ミリとして成立するに至ったのは古い話しではない。66年に発売された、フジフィルム社のシングル8システムとコダック社のスーパー8システムが登場して以来のことである。内容は省略するけれども、シャッターを押せば写るという最低限の条件がそのことによって満たされるようになった。映画を撮れる環境がはじめて大衆化し日常化してゆく道が拓かれたのだ。もっともそのことによって安易に撮られてゆくフィルム量は、はるかに膨大したのではあるが、ともかく、男性に比べ体力的にハンディのある女性にも、また、カメラ機構の分からない子供でさえも映画を撮りえる環境が出来上がった。そのことは、映画を一部の特殊な専門屋の呪縛から解き放ち、映画を我々の身近かに近づけたのである。

 ただ本当に8ミリの独自の世界が見い出され、見直されるのはまだまだ時間がかかることだろう。それは地の底に秘められた宝石のごとく、可能性として埋もれているにすぎない。しかし、8ミリが実際の映画の現場、すなわちシャッターを押す瞬間瞬間に出会える機会を35ミリや16ミリよりもはるかに広く大きくかかえているのは事実である。映画が日常化し、一般化するということのうちには、そうした環境を是非にも欲するのである。

 そうして、実際にフィルムをまわしてゆくことのうちに、作家として眼醒めてゆく人生は、自分の映画になってくれる瞬間となってくれない瞬間を、多くの出会いのうちに経験し、独自の映像的感性と発想を培ってゆくのである。文学に接しながら、ストーリーではなく、文体や行間を読み込んでゆくように、映画のうちに映像の微妙なニュアンスを次第に感得してゆけるようになる。初めのうちは極めて意識的に、自分をごまかさず実際に撮り続けることが、本当に作家の力となり得ていくのである。

 8ミリには無限の沃野が眼前に開かれているのである。そう考えるのは僕一人の幻想にすぎないのだろうか。