映像論のために   

 現代映像論には、とんでもない代物が数おおくあります。それをひとしきり不満におもうのですが、それをきっちりと展開するには、資料収集や思考の深まりがいまだ不十分です。

 とはいえ、現状目にあまる状況はそのままにも捨ておけず、映像を考える基礎の問題意識だけでも、ここにぶちまけておきたいとおもいました。ゆえにこれは論ではありません。考えを煮つめる前段階のそのおもいつきを書きとどめた、ただのスケッチにすぎません。


 * * * * * * * * * * * * * * *


 <映像論のために>


 ここでは、一般のちまた学者の映像観をひとまず素材とします。
 映像ということばを、狭義と広義にわけて、まず見つめておくこととします。

 映像は、狭義には、人間の表現行為により外部に対象化(創出)させた視覚的表現形象の感性形態のありかたが指示されます。具体的にはTV画面の視覚光像や、映画の視覚光像などの動態的な光像、さらに写真といった静態的な視覚光像のものまで、それらの表現の視覚像を一貫する感性的ありかたを映像という概念でとらえています。表現映像というのが、狭義の映像概念です。

 では、広義には映像という概念としてあらわされる現象とはなんでしょうか。水面に映った像、鏡に映じた像、この像のありかたもまた映像ということばであらわされます。非表現的具象映像として、ひとまずとらえておきましょう。

 ことを複雑化させているのは、上記の映像以外に、認識のなかに形成された視覚的なもの、これもまた映像ということばで語られることがあることに起因します。現実の視覚像はむろん映像としてとらえられますが、さらに対象が心に反映した印象としての像を映像としてとらえます。さらに夢の視覚像も、空想的視覚像も、また映像という語彙の範疇で語ろうとするのです。

 現実視覚とその印象はすこしおいて、その余はいわずもがな、頭のなかに形成される認識像であり、実体との直接的媒介がない観念像です。視覚感覚に直接に媒介される実体がむこう側にはありません。
 水面の像や鏡の像までは、なんとなくついていけたとしても、この観念像あたりになると、ちょっととまどいはじめる人もおおくなることだとおもいます。

 ここまで映像概念が心の像のがわに拡げられてとらえられるのには、むろんわけがあります。

 <image=映像>という出発だからです。そのうえで映像という概念を、<映像=それ自体に実体のない視覚像>ととらえるのです。そこから、この定義によりそって、その概念規定に該当する一切を包摂する外延(すべての具体)を探ると、とどのつまりこうなってしまうのです。

 この概念規定(内包)が、日本語の映像にふさわしいかどうかはひとまず棚にあげて検討します。

 ここでの映像に対応する外国語はimageです。その訳語として映像を対応させて使おうとするちまた学者たちにおいて、その外国のimage論を日本の映像論に転嫁し、横すべり的に使用しようとするもくろみから、このややこしさははじまります。

 image=映像とするなかですべてを消化しようとするわけです。そこでひとまず、このimageがどういうことばなのか、その検討からはじめたいとおもいます。


 わたしたちはこの五感に映じる感覚像を原基として、外部にひろがる世界を知覚していくことから認識の形成がはじまります。そのなかのひとつとして視覚像があります。

 視覚は、その視覚対象に光線があたり、そこから反射した光線が目の網膜に映じることで、視覚対象のもろもろのありかた、形・姿・動きを像として知覚し、脳髄にそれをくみあげて認識するものです。

 この知覚は、動物が外部を認識するにあたってもっとも重要な感覚で、この知覚によって、自己の動きを外部の動きに応じて変化させる行為の実現がおおきくはかられます。この視覚性に知覚の制限が生じると、わたしたちの行為(自己運動)はとたんに影響をうけることとなります。その知覚遮断によって生じる生活の困難性は、他の五感とは質的に違う次元をもっているとまでいえるものです。それは、視覚遮断の生活をこころみれば、たとえば目をとじて道を歩くとかするならば、たちどころにその不自由さが実感されることからもわかることでしょう。

 かく視覚は重要な感覚ですし、それは誰にも確認しえることです。それほどの大事な感覚ですので、視覚の原理がよくわからなかった時代には、それはとりわけ神秘な現象にもおもわれていました。

 というのは、視覚は、実体と直接触れているわけではないのに、また実体そのものの機能によりそれが感覚されるのではなく、光を媒介することでそれが知覚されるというところにあります。実体そのものが光を発することにおいて見えるということではそれはありません。

 そしてこの物体に反射された光線を映じる媒体(たとえば水面)があれば、またそこにも視覚対象像が立ちあらわれる。水面に自分の顔が映り、その像は自己の目で直接見えない像として映じるばあいもある。またそのむこう側にあるようにおもえる世界には直接の実体がない。ちなみに鏡とは、この現象の人間的道具化でもあります。

 こういう体験と認識においては、見えるという知覚は、対象物がそこに直接あるとかないとかということが問題ではない、光が問題であり、その光は神の精神なのだ、という考えをもつ人間もあらわれても不思議でないこととなります。キリスト教が思想支配していた時代においては、なおのこと。夢の視覚、空想の視覚、こうし知覚感は実体の有無が問題でないことの実証にもおもえます。

 かくして実体の有無は、視覚像そのものの成立にはあまり関係をもたないかのように考えを飛躍させていきます。視覚体験過程の媒介をたどらず、視覚知覚感の直接性に足を引きずられるからです。

 こうした視覚の光線媒介の知覚性のありかたは、他の五感よりすこしきわだっていましたから、このありかたが視覚反映のありかたを特殊に考えることを推進させていきました。

 夢は、われわれの認識した知覚像の断片が無意識にシャッフルされ変容をみながら、現実の像の事実とのつながりを希薄とさせつつ、つむぎあわされていきます。この体験もまた視覚的な光景が深く印象されて残存します。

 空想もまた、その具体的な想像を視覚性におおきく表象させて像化させ、視覚像としておもいうかべる体験がおおくもたれます。

 こうした生活体験の事実のうちに、視覚感の現象が反省されますと、視覚はけっして、実体とむすびついていることではないという概念をいだくことは、とっぴなことではなくなってしまいます。

 さらに、さきにすこしふれたごとく、実体がそこにあっても光がなければ見えない。光がなければ見えないものが、空想や夢のなかにはあらわれる。それはきっと、精神のうちに次元のおおきい光があるからにちがいない。それはまぎれもなく神の光だ!

 ちょっとカリカチュアがすぎましたが、しかし、こういう考えに類した展開が、事実、中世ではおこなわれたのでした。

 もともと観念論の世界観では、実体の存在の有無は最終的な問題にはなりませんでした。世界のはじまりは観念だからです。それで、実体は最終的には観念の産物であり、その反映も心の光の反映観に基盤をおいて展望されていきます。かくて、心の反映としての夢も空想も現実視覚も、ともにその視覚体験の質がたやすく同列視されて、なんら不思議とはおもわれなかったのです。

 こうした世界観の反映のうえにimageということばをおけば、どうしてこのことばのなかにこんなに広義の含意があるのかが透けて見えてくるでしょう。心(精神・観念)が基盤ですから、心に反映する(映し出された)視覚像をひとくくりにしてしまうのです。

 実体そのものが観念の産物である観念論の世界では、その本質は精神なのです。その展望でくくられた視覚像として、imageという<映像>観がつくりだされます。

 そして、この心に映じる視覚像ということで同列上におかれたimage論的展望が現在の映像論にももちこまれることとなるのです。

 ここに混乱が生じます。日本語の<映像>には、そういう観念論的世界観を反映した含意がありません。想像とか空想とか、それだけを区別することばが流通しているからです。夢や空想の像までも日本語の<映像>に押しつけるには無理があります。

 よしんば、その概念枠で映像をとらえるとして、そのことによって、そこに映像観を理論的に深めるなにがうかびあがってくるでしょうか。残念ながら、この観念論の迷路的混交で映像をとりまとめてとらえるなら、かえって映像の論理の構築は遠のくばかりといわざるをえません。空想から表現映像への過程的展望を、その像のありかたを、同じimageとすることで、構造的発展性を見失うこととなるからです。


 では、日本語における映像の意義を検討しておきましょう。映像とは、ほんらい対象の実体が反映したその像のありかたです。その反映した像自体に実体はない。いわば影です。<実体が反映された像=映像>という概念です。これは五感においてすべてなりたちます。音楽テープの再生も、演奏を反映した音の像であり、その空気震動のありかたをマイクで映しとったもののスピーカー再生であって、その意味では、このスピーカー震動は音の映像といってよいのです。

 この五感像までに拡大することは、ちょっと抵抗ある人もいるとおもいますし、これまでの脈絡からはなれて、ことをよりややこしくさせかねませんから、とりあえずここでは、それを視覚に限って再度検討してみましょう。

 反映を映しだすには、その媒材が必要です。対象の認識への反映は脳髄の細胞を媒材としておこなわれます。視覚は、網膜という媒材に対象の光像が反映した像を認識することです。よって、視覚は網膜から脳髄への媒介過程が構造化されて成立をみていることとなります。そしてこの視覚した知覚はただちに捨て去られるのではなく、その光景を記憶のなかに保存し、ときにそれを思いかえし、活用しつつ生活していきます。この生活過程の認識運動の無意識的展開が夢の視覚像であり、意識的展開が空想像です。

 ですから、この過程の基礎にあるのは、視覚対象となる実体なのです。この実体のありかたをとらえる感覚器として、動物生命は、太陽エネルギー光の事物への反射を独立して受けとめる機関を生みだしたのでした。ですから、まず事物ありきなのです。これは唯物論的立場ということになります。

 この光線の反射によるその事物の光像の反映は、目の網膜だけでなく、その光線をさらに反射させる媒材のうえに映じると、そこに像を切り結ぶこととなります。このありかたが、映像ということばを生みだす、もっとも基礎的なものになります。水面の像はその典型です。それは、<反映した像>の客体的あらわれを強く意識させるものとなるからです。

 実体的事物があり、その光線を反射した反映としての像は、そこに実体がない。月が水面に映っていても、月が水のなかにあるわけではありません。もっと身近には影があります。影もまた地面や障子に実体が輪郭的に投影された特殊な映像のひとつです。

 媒材に映じている姿、このありかたが映像という概念を発生させます。

 この特殊な、媒材に映じる感性的認識の視覚的感触のありかたを、人間はひとまとめにして言語化したくなります。たとえば<影像>というようにです。ここに、映像につながることばの必然があります。そして厳密に視覚に限定して語るときは、むしろ影像のほうがふさわしいともいえるのです。

 こうしてみると、日本語の<映像>概念は、字義からいっても実体の反映像ととらえるところにその妥当性があります。そこには反映という媒介の認識があり、その映像を生みだす実体がうかがえます。このビジョンにもとづき、脳髄への実体の媒介反映をもふくめて映像をとらえますと、これはとてつもなく広い概念でもあるということが認識されます。imageのごとき視覚性偏重で<映像>をとらえること自体おかしい、つまりimage=映像には無理があるということにもなります。ですがそういっていては、ある種、線引き論に終始するばかりとなり、展望の埒があきません。

 まずはimage概念枠との共通項として、ここは視覚性に限定してこの映像という日本語を、これ以降はつかっていくこととしましょう。

 ですから再度ここでは、説明ゆえの仮定として、<映像=影像>という限定構図を立てます。そのうえでの話しであることをわきまえておいてください。

 もういちど確認しておきましょう。映像とは実体の媒材への反映の像であるということ。この媒材がなければ映像は成立しないということです。

 映画を例にすると、映画表現においてはスクリーンがこの媒材となります。そしてその媒材に映じる光像はフィルムという媒材に支えられ、そのフィルムという実体があって投影されているのです。そのフィルムは、また被写体光景を反映する媒材でもあるわけですから、この反映のありかたの媒介構造は平板ではありません。

 さて<映像=影像>は、自然的な反映から、その像のありかたが意識にのぼることからはじまりました。地面に映るもろもろの影、これも反映された像としての映像のひとつであることは先にのべました。

 この影の像のおもしろさ、実体と光線と媒材が現象させる不思議な感触。この像は、実体的事物のようにつかみとることはできません。そこに知覚されるのは、通常に体験する視覚世界とは異質の幻想性を現実のなかに体験させます。これらの幻想的視覚感のあらわれかたを表現的に活用できないかとこころみる人たちがあらわれます。その幻影的な像のありかたを人為的に工夫してつくりだし、それを見て楽しもうと考えます。たとえば、灯りを利用した影絵があらわれることとなります。

 こうして、表現としての映像があらわれることとなります。この表現としての映像は、自然的な反映としての映像とはまったく異なった、そのあらわれまでの人間の認識を媒介させた過程があります。

 人間の意識のなかで創造される空想のありかたが、その映像化への起点となり、表現実現までの過程がこの認識を媒介させて一挙に構造化されることとなります。できあがった現象だけを並べれば、自然の影も人為的な影も、現象としては同質です。しかし重要なのはその出現の過程です。

 この過程を無視し、imageをもとに、視覚感の現象だけで映像をとらえようとすると、映像ということばに、自然的映像と、表現としての人為的映像をどうしても共通させてくくって語らなければならない必然が生じ、むしろ、よりわける考えがおかしいようにおもえてしまうことともなります。心的像のありかたをうまくそこにスパイスすれば、なんとなく整合性があるように感じられてもきます。

 しかし、そのあらわれの過程的構造はまったく異なるのですから、映像論を論じる場合、表現としての映像を、表現された映像として語ろうとするのか、それとも自然現象としての映像をふくめて、その視覚現象のありかたを映像としていま論じているのかは、明確に分別されねばなりません。すくなくともその相関性の区別と連関の論理的展望をきっちりとあたまのなかに整理をつけてのち、提示すべきことといわなければなりません。論においてはです。映像論ということばではなく、映像私観とでもしておけばよいのにとおもうことしばしです。

 映画・映像作品としての映像を論じるならば、表現としての映像がまずしっかりと語られなければなりません。その狭義の映像表現性がきっちりと論理展開できねばなりません。そして、映像を論じたい主たるウエイトはそこにあるはずですから、そこが展望しえなければ話しにもなにもならないのは理の当然でしょう。そしてさらに当然のことには、この表現としての映像を論じるほうが、自然の映像を論じるよりはるかに理論的にはむつかしいのですから、表現映像論の論理展開ができれば、あとは、なにほどのこともないはずのことなのです。しかし、ちまた学者のあたまでは、その必然すら見えてこないし展開もなしえない貧しさです。

 ただただ外国の文献にたより、その切り張り的知識の獲得にうつつをぬかすあまり、ついにあたまを論理的に使うという機能にはクモの巣をはらせてしまった結果でしょう。

 なぜimage=映像として考えなければならないのか、そういう疑問すらおこらないのです。観念論的世界観を背景として概念化された心的像をふくめてのimageの概念と同等のものとして<映像>をなんとしても封じ込めようと努力します。

 ここに無理の無理があるわけです。image論として映像論をやるならば、人間の認識機能と想像性の発生過程を、きっちりと論理的に把握してかかる必要がありますし、視覚的想像力が創造性に転化し表現実現されるまでの過程を、現実のあらゆる局面に適応させえるまでのレベルで論理抽出する能力が問われます。その実力養成には高度の認識論の修得は不可欠なのです。

 しかし、ちまた学者では、こういう展望すら、自分のあたまで考えその構想をいだくことをやろうとしません。それを一歩一歩自分の脳髄で解明していくことなど到底できません。外国の文献にいきおいそのよりどころを求めようとするだけですから、さてこそなにをかいわんやなのです。

 まあー、人のことはいいですよね。

 映像論、きっちりと自前で展望できねば話しになりません。映像表現に取り組むかぎりは。死ぬまでの課題です。その一端だけはここに記しえたことで、とりあえず今日は矛をおさめ、おさらばすることにいたします。