劇映画的表現性    

 劇映画的表現とはなんでしょうか。

 <劇映画=劇表現+映画表現>とみなしたいと、わたしはおもいます。

 こういう図式には、ご不満の向きもおありでしょう。いかにもだれにもおもい描けそうな、安易なビジョンにうつるからです。しかし単なるおもいつきから、こうしたビジョンを持ちだしたのではありません。

 現代映画表現を、そのすべての映画表現を貫くべく<映像視覚の構成体>と定義づけますと、劇映画は、その映像視覚構成体としてあるとともに、かつ劇的展開の構成が重層的に構造化され、立体的に表現されています。映画演劇的表現と映像視覚構成表現とは相対的独立の関係にあり、位相の異なる次元において、われわれの心にはたらきかけをおこなってくるものとしてあります。とはいえ、それぞれの表現は、相互浸透をしっかりとげるまでに融合化の工夫がなされ統一化をみていますので、そのそれぞれの表現がばらばらに受けとめられることなく、統一した心でうけとめられるよう表現実現をみているものなのです。この特殊な構造をもった表現性が、劇映画に個有の表現といえるものです。

 ですから、劇を撮影しさえすれば、それはやはり劇映画といえるものとはなるし、その資格をもつのです。事実、誕生期の映画には、そうしたものといってよい作品がありました。

 しかし、演劇そのものがいかに高い芸術性を実現していようと、その映画作品としての芸術性は、映画表現力、つまり映像構成の表現のありかたとの相互浸透の統一化の表現力にかかりますから、その表現力が幼ければ、個別の表現性がきわだつばかりにとどまり、劇映画としては貧しい作品となるのです。被写体そのものの芸術性は高いが、その記録のありかたと構成は芸術性が低いということになります。テレビの劇場中継の一部には、そうした事実をはっきりと見てとることができる作品もあります。

 こうした展望にたって、劇映画=劇表現+映画表現、と定義づけたわけです。

 では劇映画の重要な要素である、劇表現とはそもそもどういう表現であるのか。その一般的考察と映画的特殊性においての考察は、いずれ日をあらためて考察したいとおもいます。