時相映像美<表現>学・事始 

 東京の映像上映集団「ハイロ」の上映会が1999年の夏にありました。作品をもって出向いたおり、映像実験誌として不定期に刊行されている『Fs[エフズ]』の編集長水由章氏が見にきてくださって、そこで雑誌への寄稿を依頼されました。ようやく理論的展望が曙光をみた時期だったので、そのときあたまに形成をみかけていた理論の展望概要と、それだけでは到底読めない代物となってしまうので自己の精神的遍歴を表象してあらわし、あわせて一気呵成に数日で書き上げた原稿を送付しました。

 あまり目立った応答もなかったのですが、それから一年ほどたって、原稿を掲載したいのでとあらためて連絡をいただきました。

 『Fs』7号に掲載していただいたのは、2000年9月です。

 表現論をいささか自前で展開しうるようになった端緒の文章です。論理は脆弱かつ混乱ありありで、現在の考えかたとも違っておりますが、表現受容過程の論理化は、きらり光っているものがあるとおもいます。その前半の精神的遍歴の叙述はまた熱っぽく、ようやく曙光が見えはじめた心の躍動があらわれているようにおもえます。

 最後の文章のいきがりには、気恥ずかしさをとおり越して笑ってしまいますね。ようやく理論的な展望が仄みえて微熱の続く時期でした。熱に浮かされていたのは間違いありません。


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 <時相映像美 <表現> 学・事始>


 映画は、わたしにとって「死に至る病」である。

 青春病の一典型として著名な映画熱病は、危険な病いではあるものの、およそ急性病として、ほとんど30才まえにはその病いが癒えるのが通常のこととされている。しかし個人的条件の差異か、はたまた運命か、その病源に魅入られ、深部にまでその毒性が浸透を果たしてしまうと、もはや微熱から解き放たれることは絶望的となり、脳内には日ごと夜ごと映画の妄想が蠢きを続け、うわごとのごとく、映画・・・映画・・・とつぶやくようになる。そしてなによりも悲惨なことは、この病いを慢性化して抱えることによって、およそ社会人としては無能な廃人と化してしまうケースが少なからず見受けられるということである。事実、わたしはそうなってしまった。わたしにとっては、映画は「死に至る病」である。それはそれでよい。自分が意志したことのなれの果てのことなのだから。それは視点を変えれば、酒飲みの肝硬変となんら変わるところもない業病である。

 しかし、職業病としての側から慢性化を余儀なくされたのではないこの病いが、自分にとって到底癒されぬ病いであることが自明のこととなり果ててから、わたしにはある妄想が明瞭な展望をもって自らを襲うこととなった。その妄想ビジョンとはこうである。

 近未来のとある日、世界を制覇することを果たした反映像帝国は、その強力な支配力をもって突如世界に映像禁止令を発布する。各執政区画ごとに映像神の刻みつけられた踏み絵が運び込まれ、各個がその踏み絵のまえに並び立たされる。執政官の睨眼する射すくめる無言の視線を浴びながら、踏み絵のまえにひとりまたひとりと呼び出され、副執政官の「踏むがよい」という乾いた声のもと、踏み絵の儀式が静寂のなかに進行してゆく。やがて否応なくわたしにその儀式のときが来たる。わたしは凍り付いた意識のまま踏み絵に対峙する。副執政官の声がわたしの耳に鳴り響く。「踏むがよい」。その瞬間に時間は停止し、わたしは踏み絵のまえに、踏むこともまた額ずくこともできず、ただ佇んでいる。

 これがわたしを襲った妄想ビジョンのすべてである。そして、いまもわたしはただ佇んでいるに過ぎない。踏んだところで、どのみち助からぬ身であることがわたしには分かってしまっていた。不幸は、踏まずに額ずく道が自分の次元を高めてくれるのでもなんでもないという、あきらかな事実の覚醒の側にあった。

 この不幸な覚醒した微熱が、わたしに個有の顕著な映画病の症候といえるものなのだといえよう。

 いまから30年もまえの昔、わたしはこの業病を突然に抱え込んだ。病いを深く患わすに足る、得体の知れぬ病原菌が次から次へとわたしを襲った。それはフェリーニ菌でありブニュエル菌でありアントニオーニ菌でありブレッソン菌でありゴダール菌でありヘルツォーク菌でありタルコフスキー菌であり小津菌であり溝口菌であり川島菌であり、そしてコクトー菌でありブラッケージ菌であった。

 しかし、体外からやってきたこうした病源菌に冒されているだけのことであったなら、わたしの病いは、もっと早くに、平常人へと復帰する快癒の道を見い出していたかもしれない。この病いを決定的に深部に追いやったものは、いまとなれば歴然としている。他人の映画によっては満たされ得ない思いを形象化したいと握りしめた8mmカメラによって、それはもたらされたのだ。

 シネカメラを握りしめることにより、映画はわたしの毛穴という毛穴から有無を言わせず猛烈に沁み込みはじめた。それは、映画をできあがったものとして眺める立場から過程的なものとして視つめる立場への鮮烈な転移といえるものであった。映画への問題意識は実体的な深さを着実に増し、薄紙が一枚ずつ積み上がるがごとく、時には眼から鱗がはがされる体験を伴いながら、映画というものが、ひたすら深く深くまたどこまでも深く、それゆえの恐れをともなって、肌身に肉薄して直観されていった。映画は、もはやわたしの身にまとう衣服ではなく皮膚となり果てた。脱ぎ捨てることはできない相談ごととなってしまった。

 やがてわたしは一本の超短編をでっちあげることとなった。それが、この流れを加速した。成し得たことはほとんど大したことはなかったものの、やろうとしたことはそれなりに、その時代に意味あることではないかと自負するところもあった。しかし、誰もなにもそのことには触れるものはなかった。わたしは、自分の不器量を恥じるとともに、しかし、なにかがおかしいと感じ始めていた。

 映画を見るということの意味と認識行為があまりに懸隔している。それは一体なんなのか。

 わたしは、われわれの映画を含めて<映画>概念の外延を捉えていたが、映画上映サークルの運動がまだ残垢的に居残っていた当時の状況下のなかで、劇映画を頂点として映画表現をヒエラルキー的に眺める同時代の多くの映画人もどきの人々のうちには<映画=劇映画>という構図が無意識裡に頭を支配しており、内的な理解者を見出すことは絶えて稀なことであった。

 わたしが第一に違和感を覚えたのは、劇映画のかつて達成した高峰を仰ぎ見ることは妥当なこととわたしも認めていたものの、それは先人が達成したことであって、それを称揚する人間がもたらしたものでもなんでもないという当たり前の事実をわきまえていたのに対し、その人間たちがそのことをどこかに置き忘れ、どう頭を寝違えたものか、上等の映画を認識しえる自分をあたかも上等のごとく勘違いするという、とんだお笑いを演じていたことである。そういう人間たちに高踏駄弁の一語を発されるごとに、わたしはつい我慢がならず、十語をもって噛みつくという無謀を重ねた結果、ついにわたしは映画狂犬病者として、ことごとく周縁の映画の関係者たちからは毛嫌いされるという、当然の事態を招来させてしまったのであった。

 そしてこの構図は、裏返された意味で、実験映画の彼方にあっても同様のことが繰り返されたのであった。

 わたしが違和感を覚えた第二は、そうした人々との映画の見方の相違だった。

 わたしは、ある映像作品を鑑賞するに、その映像をその映像構成でOKを与えた人間が最終的な形で存在するという疑いようのない事実から出発したのであり、それゆえ、立ち現れた映像世界が、どうした人間のどうした発想からそうした映像となり映像構成となっていったのかを追体験するのが鑑賞することの意味であると思われたのであった。しかし、こうした作家の内実を過程的実践的に解読していく視座を意識的に導入していくことは、その当時、あるいは現在においてもそうかもしれぬが、極めて稀少なことであって、それゆえ、わたしの見方は特殊かつ特異な鑑賞法として、ときには疑いの眼と心をもって、そうもいえるであろうという扱いのなかに、明確な問題意識を相手に生じさせることもかなわぬまま、つまり言葉が相手にとどかぬままに、わたしは自分の見方のその意味での異常性を自覚させられるハメとなったのである。事実、その当時、わたしは自分の感性が本当におかしいのではと疑うほかない時期が少なからず続いた。

 その煩悶から解き放たれたのは、自己の鑑賞視点から追体験しえた作家の世界の過程的展望を仮説として自己のうちに定立し、それを事実的に検証することをえたとき、はじめてその仮説を真説として認識転化するという訓練の積み重ねを通じてのことであった。作家の語る自作への言葉のうちに、わたしの視座が近接していることの証明を少なからず確保しえた、事後的事実の堆積がそこにあったのである。

 一度、自らを疑った事態を通過して直立した自己信頼は大きいものであった。しかし言葉はやはり、なまなかに向こう側には届かなかった。以前よりははるかに届く力をもたらしたものの、それはただ、声が大きくなったという体のものでしかなかった。

 いつか、この声を向こう側に、すなわちわれわれの映画を含めての映像作品の表現の本質を、感性レベルを超える理性の言葉をもって提示したいという衝動がわたしのうちにほのかな兆しを見せた。すでにその時、わたしのうちには直観されている映画というものが確かにあるように思われていた。ちょうど時間というものが疑いもなくなんびとにも直観されているかのごとくに。そして・・・・

 「映画とは何か?」、この決して発すべきではなかった言葉を、自らの力量をもかえり見ず、わたしは自らのうちに自らが対峙する絶対公案として課してしまったのである。それはじつに愚かなことであった。動かぬ頭を思惟させることの苦渋は、ときに自分の頭をかち割ってしまいたい衝動を幾度となく内発させた。こと志の高みとは異なり、それを自らの思惟のうちに成し遂げんとするには、ほとほとわたしの頭は低劣でありすぎたのだ。ほとんど絶望的状況からの出発である。

 それゆえ、わたしははじめ、こっそりと既存の映画理論に寄り掛かろうとした。誰かが既にわたしのかかえていた疑問を解決してくれているのではないか。なんびとかがすでにやってくれていることなら、わたしの出る幕はもとよりない。しかし、事態はあまりにも深刻なものであった。頼るべき理論どころか、否定すべき葬り去るべき理論が充満していたのである。わたしは唖然とするほかなかった。そののちに茫然自失の自己がやってきた。これでは、わたしが否定した映画人もどきの人間そのままの自己構図ではないか。背中を幾条もの冷たい汗が流れ落ちるのを覚えた。真剣さをいやがうえにも増すほかなかった。

 そのときにわたしが覚悟しえたことはただ一つ、語れないうちは語らないでおこう、それだけの覚悟であった。そして、流された血と汗がたとえ徒労に帰そうとも、それを潔く良しとしようではないかという諦観と、そうならないための努力をひたすら続けるほかないのだという覚悟の臍を噛みしめたことであった。
 そして、20余年がたった。なにごとかを呟いても許されるだろうという思いを抱けるまでには、なんとかこぎ着けつけたように思われる。

 わたしの頭が悪いがゆえに良かった点はただひとつだけ認めることができる。それは、この悪い頭を説得しなければ合点がいかなかったという点である。皮肉といえばこれは最大の皮肉だった。わたしは、合点のいかない悪い頭を抱え、頭のよい連中がやすやすと飛び越える認識の溝をしっかりと埋めることによってのみしかその溝を越えることができなかった。しかし、苦労を重ねてある溝を渡り終えてみると、はたして頭のよい連中の飛び越しようが現実なのか空想なのかは、はっきりと見定めがついたように思われる。頭のよい連中がみずからに欺かれる愚だけは避けることができた。

 とはいえ、わたしに分かったことのいくばくかは他愛もないものであるようにも思われる。体系的な展開は、後日、別の場に委ねることとして、ここではわたしがなにをなそうとしているのかの簡略な構図を、体系のタイトルの解題からその陰影を暗示するに止め置きたいと思う。



[「時相映像 <表現> 学」と命名する意図]


◆映像という言葉にはときとして静態的な映像としての写真を含む。ここでは映像表現を動態的かつ定性時間的構成順位が確定された完結された映像表現に限って対象とする意図を明確化するため「時相映像」という造語を創作した。

◆時相映像表現全般を対象とした一般的体系の展開は今後の課題とする。まず対象とすべきは時相映像美である。時相映像美<表現>学は、特殊時相映像<表現>学に該当する。

◆美とは観賞価値を有するものをいう。相対的鑑賞価値論として美を考察する。

◆表現論はあまた存在するが表現学はいまだ確立されていない、とわたしは考える。それを自分が成し得るとは思わないが、その一石は投じたいとは思う。表現学と名付けるゆえんである。学とは対象の構造的本質的論理体系化である。真の学は実践的でありうる。

◆表現ではなく<表現>とするのは、通常の表現の概念が表現創出過程に重きをおき、表現受容過程を付随的もしくは排除の認識構図で展開しているのに対し、表現の意味性(後述)の反省より論理的必然として、表現概念の外延のうちに表現受容過程を含めたものを表現過程として捉えねばならないとの考えから、この広義表現過程として表現という言葉を、それゆえ通常の表現とは異なる概念として、使用する意図を有して、それを<表現>と表した。これを、たとえば広義表現という言葉にして使用しなかったのは、それが広義表現という言葉にして使用しなかったのは、それが表現という言葉の本来ありうべき内容でああると考えたからである。



[<表現>概念の概要記述]


 表現は人間に固有のものであり、それは人間が意識を持つ動物であることに由来する。意識とは自己認識を自己対象化する機能である。意識機能を有さない動物には表出過程は存在しても表現過程は存在しない。なぜなら表現とは必然的に表出形象の認識対象化を過程的構造的に有するものであるからである。

 表現を人間が行うのは、人間的生産形象を通じて人間的認識を対象化し、その対象化された形象を媒介してその形象より辿れる人間的認識をふたたびその形象と対した人間の認識に戻すためである。このふたたび人間の認識に戻る過程が表現受容過程である。それゆえに、<表現>はこの両者の過程をあわせてこそ成立する概念である。この過程の円環は、特殊には、自身のうちに閉ざされても、その過程がある限りにおいて、表現としては成立する。

 表現創出過程には、観念的対象化過程と対感覚化外化対象化過程(形象化過程)とがあり、この二重対象化が相互浸透的過程として存在する。対感覚化とは、われわれの五官に作用する絶対窓口がなければ認識内容を捉える糸口がないことを指し示す。認識がすべて感性的認識に移し変えられるという意味での感覚化ということではない。言葉ですら文字として視覚的に訴えるか、声として聴覚的に訴えるか、その五官を駆使させることを、直接的に必要とするのである。

 表現受容過程は、表現形象の感覚的受容過程と創作者認識への追認識能動過程が二重化されており、直接的に同一化された認識体験として受容者の認識を創造する。

 この表現過程の考察を除いて人間の精神生活を真に理解することは不可能である。なぜなら、人間のすべての対象化された生産には、表現的側面と非表現的側面とが不可分に、すなわち直接的同一的に実体するからである。あらゆる人間的生産を表現対象として捉えることを可能とする端緒がここにあるといえる。

以上


 この自己創出した表現理論を背景に、独自の映像美表現理論を展開していく予定でいる。しかし、その体系をどのように言語表現化していくかは、いまだ定かではない。いまこの場で言えることは、必ずやわたしはこの仕事をやり終えるだろうという、そのことだけである。それまでは映像美の理神は決してわたしを殺すことはあるまい。わたしは不遜にも、いま、そう信じてやむことがない。わたしは神のまえに、ただ佇んでいるに過ぎぬのだが。