表出について  

 表現に対し表出ということばがあります。この表出の概念は、いまのところ人さまざまに使用されており、その概念は一様ではありません。その表出ということばを、表現という概念に対してどう使い分け、どう概念差を明確にして用いているのかは、おのおのの書き手の頭のなかにあることといってよい現状にあり、その意味するところは、語彙の使用された個々の具体的ありかたの位置づけにおいて推断されるばかりです。共通的に、その差異を明瞭化させたことばとは、いまだなってはいない状況です。

 ですから、これが正しいという使いかたは、必ずしも妥当性を持たないわけですが、わたしが、どういう概念において、このことばを使うのかは、明確にしておかねばならないことだとおもいます。

 表現ということばとは区別して、なにか表出的なものをあらわしたいという概念上の区別の要求がわたしたちの内部にはあり、それに起因して、そのことばが実現をみていることを考えれば、そこにおぼろげにせよ、表現との概念差をあらわしたものとして表出ということばが生みだされる必然的な実態感がそこにあったことはみてとれることでしょう。

 わたしにおいて表現と表出との差異は、意識的な媒介過程の有無においてそれをとらえており、表現性はともに有するものでありながらも、表現意識のありかたに差異あるものと位置づけて区別しております。

 表出とは、わたしたちが、その認識内容の側面を、それを現わそうという意識なくして、その認識が読みとれるものとしてあらわれてしまうもの、という概念です。

 顔の表情や身体のしぐさにおけるその形象のありかたが、その人間の考えや心情を察するに役立てられることがあります。しかも、その所作や表情においてそれを意図的にあらわそうとしたのではなく、むしろそれを秘めたいとおもいながらも、その認識(感情や思い)が内部にあることにおいて、その形象のあらわれかたのありかたから表出者の認識内容がたぐられてしまう。そういう現象は日常茶飯事にわれわれが体験し、活用しているところです。顔色をうかがいそれを読むことは、人間関係の高度の形成にみなさんも役立てておられるところでしょう。「忍ぶれど色に出にけりわが恋は・・・・」という歌も、その表出のありかたの一例です。

 この表出は、表現との融合をみせながら、具体的表現形象に反映をみせつつ、その取捨選択のうえに最終形象の成立をはかっていきます。無意識的表現性を意識的に表現へと転化させつつ、表出を表現化や不表現化させながら表現形象が形成をみる、ということがおこるのです。

 さらに深化した様態でのべるならば、自覚化された表現性が日常的に馴致され、ふたたび無自覚化への形成過程を経たのちにおいて、無意識を装ってあらわれる高度の表出性レベルに達した表出を自覚的にとらえるという人間表現の高度化もそこにおこります。ミケランジェロがいったように「わたしが(この彫刻を)彫り出すのではない、神がわたしの手をかりて彫りだすのだ」という心境のそれです。

 この過程の展望はいずれまた。