映像視想メモ(3)  

<映像視想メモ・第3回> 1980年執筆


 なにやら訳の分からないうちにひと月が走り過ぎていった。このひと月の間、できる限り自主製作映画の上映会には足を運び、結構数多い上映会がぼくの時間を喰いつぶしてはいったのだが、量的なものとは裏腹に、映画を見た!というたしかな実感は、一向心の中にめばえてはくれなかった。上映会場からの帰路、今日もまた見るべき映画と出会えなかったかという苦い虚しさだけが、心一杯に拡がっていくだけだった。

“人の鈍根というは、志のいまだ到らざる時のことなり”

 道元のすさまじい一句がぼくの頭の中に響きわたる。フィルムからあふれるほどに、深くたしかな作家の情熱がどうして見えてこないのだろう。安逸な精神が安逸な映像を拾いあげ、ショットとショットの醜い狭間をセリフが頼りなげに埋めている作品たち。音声を閉ざして見れば、見るに耐える視覚的緊張感やカタルシスなど何一つない。はたしてそれを映画と呼ぶべきか映画もどきと形容すべきか、ともかく、そうしたフィルムが多すぎる。“おそまつ”という表現は、事実適切にそれらの作品にはあてはまる。単に技術ごときで片のつく問題ではない。それは、映画という表現媒体をあまりにも恣意的な地平でしか捉え込んでいないことの証明なのだ。そこに立ち現れて見えるものは、既成の映画枠に没主体的に組みこまれた、みずからを去勢した生半可な映像への取り組みようであり、そのおよび腰の視線に、われわれはいいようのない苛立ちを覚えさせられてしまうのだ。何を撮るのかという、ファインダーの向こう側の現実だけが頭を占領し、何ゆえにどう撮るべきかという、きわめて重要な映像精神の活動が皆目お留守なのだ。因果にもそうしたフィルムと出くわすたびに、この作家は映画と主体的に格闘したことなどまるでなかったのではないかと、疑いたくなってしまう。

 そんなやるかたない憤懣が胸のうちにくすぶっていた折、久方振りに日本へ戻ってきた飯村隆彦さんの「LOVE」(62)を見る機会があった。驚いた。この作品は、当時の既成映画全体への果敢な宣戦布告状ではなかったかと思わせるほど、これが映画なのだぞと胸の内に主張する作家の強い矜持がパッションとなって満ちあふれ、その熱情のほとばしる太き糸が、ほぼ全篇アップショットのグロテスクな男女のからみを、一貫してつなぎ込んでいたからだ。それ以後の作品は70年代を除き、なぜか急速にそのボルテージが萎縮してゆき、発想におんぶした作品づくりへと傾斜してゆくのだが、「LOVE」には、内発的な輝きが今もって消えうせない魅惑的な力が封印されていると、ぼくの眼には映じた。



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 やたら憤っておりましたね、この時期。誰に対して・・・・、他者? いえ、そうとばかりはかぎりませんよ。

 情熱は映るものだとおもいますね、媒介的に。表現力は、表出力をともなって厚みをますということがおこります。表出力をともなわねば、表現は薄っぺらくなるのです。その表出性が、この文章にはいささかながら滲みだし、「LOVE」には満ちあふれていた。そういうことではないでしょうか。

 要は、なんとしてもこれだけの内容を吐き出しておきたい、という内発の精神が大切ということに尽きます。それが無自覚な不表現力を発動させ、表現を屹立させるのです。この論理のほどは、いずれまた。