実写とアニメーション映像との創出過程のちがい 

 実写映像とアニメーション映像のその創出過程の過程的差異を、ここに考察しておきたいとおもいます。

 実写映像は、現実の動的な視覚光景を写し撮ったものです。それは上映過程を通じて、その動的再現がなされ表現されることとなります。

 この過程を短絡してとらえますと、動くものを動くままに写し再現したように早とちりしがちです。しかし、その原理をすこし反省的にとらえてみれば、この過程は、時系列に分断された連続写真の記録として成立をみていることがわかります。

 つまり、実写にあっては、動態光景が静止光景として記録され、ふたたび動態的に見えるよう光景再現する、という過程を経過していることになります。

 <動態光景―→静止記録―→動態風再現>という過程です。

 もっと抽象化すると<動く―→止める―→動かす>です。

 この過程が実写の過程です。

 ではアニメーションではどうでしょうか、

 <静止体―→記録―→動態風再現>となります。

 これもさらに抽象化すると、<動かない―→記録―→動かす>です。

 実写における記録は<止める>でしたが、アニメーションにおける記録はそのまま記録です。ここでの記録は、一対一対応の写真記録(実際には、1絵2コマであったりしますが、論理的には上記で問題ありません)を示します。よってこの記録の論理的過程は、実写とははっきりと異なります。分断されたものを、分断のままに撮影するからです。

 アニメーションでは、止っている対象しか現象していませんから、この撮影の過程的構造は、写真静止像の撮影が一対一に対応しているだけの平板な過程です。動きを分割すること自体を、撮影機の機能に負わせているわけではないからです。

 この過程は、別の眼でながめますと、映画的再現形態を必要としなければ、記録という過程が、アニメーション表現においては省略できる場合があるということをあらわします。アニメーション表現をアニメーションたらしめる決定的過程を、撮影は負っていないからです。

 <動かない―→動かす>と、記録過程をすっとばしても、残像という視覚的錯覚において静止体を擬似動態化して表現したものが成立する場合があります。これはすべてアニメーションといえる表現です。ただそれは、アニメーション映画ではない、というだけのことなのです。表現のあらわれかたは同質といってよいものです。つまり、動いていないものが動いて見える、というところにアニメーションの本質があります。


 そもそも映画が成立をみるためには、その写真技術の進歩がどうしても必要でした。残像という一種の錯視機能を人間においてはたらかすまでの高速の連続写真撮影を実現するためには、短時間の露光で光像の定着をはかれる媒材とカメラ、その開発がどうしても必要だったからです。これがじつに大変なことでした。

 19世紀はじめ、といってもおよそ四半世紀を経過した時点ですが、そのときの写真のはじまり期には、なんと14時間もの露光を必要としたのでした。それを、たかが一秒の数十分の一の露光時間で光像を定着できるようになるまでには、その技術的進歩がいかにすさまじいものであったか、推察するにあまりあるものがあるでしょう。

 映画はかくして、静止光景を写しこむ写真技術の発展上に成立をみたものです。動くものを動かないものとして記録してから、動くように錯視させるという過程的システムの確立のもとに、はじまったわけです。

 ですから、この写真技術の成立をみるまでは、動く現実光景を動く光景として再現し知覚するという映画的表現は存在しませんでした。

 しかしこの、動きのありかたを時系列に静止像として分割し、それを一連の動きとしてすばやく知覚させさえすれば、人間の錯視上において、動く幻想をいだかせることができるものだ、ということは、その映画表現システムの確立をみる、当の以前から認知されていたことでした。またそうでなければ、連続静止写真の連続映写という映画の実現そのものを構想しえるわけはないのです。

 それゆえ、写真技術の技術的突破に先行して、アニメーション表現は可能でした。

 静止体(画)をつくり、それを、すこしづつ時系列的に変化させてアクションをとびとびに描出していき、その一連の断続静止体を、なんらかの方法で、重ね合わせて眼に映りこむ機能をもった機構の機械を創出すれば、そこにアニメーションがうまれます。

 この過程を論理的にみつめますと、アニメーションにあっては、はじめに動態像がつくり手に意識され、その想像も分割も、あたまのなかの空想からはじまり展開されていくことが認識されます。

 この想像過程を含めますとアニメーション創出の過程は、<動き像の空想―→静止分割像の創出―→動かす>となります。より抽象化すると、<動き像―→静止―→動かす>となります。

 ここでの重要な表現力は、動き像の想像と、その想像にもとづく分割静止像を想像しかつ現実に対象化することです。動き像を分割するのは人間の想像力に負うのです。ここにアニメーション表現の特異性があります。

 映画が、この<動き像>を意識的自覚的にはっきりとあたまにおもいうかべて映画表現を展開しえるまでになるには、その映画システムの発明があってしばらくたって以後のことでした。一般的には、劇映画の出現以降と位置づけられます。

 アニメーションとの差異としてもうひとつ重要なのは、実写において一コマ一コマの光景分割は、想像力には基盤をおかず、ムービーカメラの機能に委ねられてあるということです。この分割想像力を、実写においては養成する必要はないのです。

 映画のはじまりの時代にもどって考えましょう。実写映画は、まだ単純な現実光景の記録撮影時代でした。ゆえに、この時代、アニメーションのほうが、実写映画に先行して、その過程的表現の実力は、空想の対象化過程が明瞭にそこにあるがゆえに、実写より高い表現水準にありました。それは表現過程のしからしむる必然としてそうありえるのです。

 想像力発揮の対象化表現としては、アニメーションは、映画発明に先行して、その表現段階が、一歩、構造的な進歩をみていたといえるものなのでした。エミール・レノーのテアトル・オプティック(光の劇場)の諸作品(「脱衣小屋の周りで」ほか)はその例証にほかなりません。

 その静止体(画)の記録過程に映画システムが導入されることにより、アニメーションがアニメーション映画として生まれ変わることとなりますが、その展望は、またつぎの機会を待つことにしたいとおもいます。