西行  

 西行との出会いは、とあるグラビア雑誌でした。逆光に映えたすすき寒々としげれる、みごとな川辺の風景写真を背景に、一首の和歌が白抜きの大文字で詠じられていました。

 「心なき身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕ぐれ」

 いいようのない名状しがたい感動が、多感な青年の胸を揺さぶりました。わたしの眼前に、まぎれようもなく西行が、現在形で佇立していました。西行という名まえを自覚的に知ったのは、そのときがはじめです。慄然とさせられながら、いったいこのような歌を詠じることのできる人間に、はたしてどのような心の遍歴と時代背景があったのか、強烈な探究の心が疼きました。
 すぐれた西行論がすでにうず高く眼前にあります。ふけりました。なかでも幾度となく読み返すこととなったのは、小林秀雄の「西行」でした。

 この名歌について小林秀雄は、こう語っています。

 「この有名な歌は、当時から評判だったらしく、俊成は「鴫立沢といへる心幽玄にすがた及びがたく」という判詞を遺している。歌のすがたというものに就いて思案を重ねた俊成の眼には、下二句の姿が鮮やかに映ったのは当然であろうが、どういう人間のどういう発想からこういう歌が生まれたかに注意すれば、この自ずから鼓動している様な歌の心臓の在りかは、上三句にあるのが感じられるのであり、其処に作者の心の疼きが隠れている、という風に歌が見えて来るだろう。そして、これは、作者自讃の歌の一つだが俊成の自讃歌「夕されば野べの秋風身にしみてうずらなくなり深草の里」を挙げれば、生活人の歌と審美家の歌との微妙だが紛れようのない調べの相違が現れて来るだろう。定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ」となると、外見はどうあろうとも、もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べているのを見ると、詩人の傍で、美食家がああでもないこうでもないと言っている様に見える。」

 ここには、独断をふくめての小林秀雄特有のものの考えかた、その理路を秘めた鋭利な感性のあらわれが、よく発動されています。
 とりわけわたしが影響を受けたのは、「どういう人間のどういう発想からこういう歌が生まれたかに注意すれば」という一節でした。まさしくそれこそが、わたしがつねに映像作品に対して抱き接していたおぼろげな態度を、言語として具現化したものであったからです。

 わたしの映像作品に接する態度は明白化しました。ただただはじめに作品がある。そしてこの眼前にある作品のこの映像・その連なりとしてのこの構成にOKを出した人間がそのむこうに必ず存在する。そのまぎれもない事実から出発して、さてその人間の精神のありかたをいかにたぐれるか。そこに焦点をあわせたものへと貫徹をとげました。その姿勢はいまも変わりません。そしてその修練の果て、「微妙だが紛れようのない調べの相違が」この眼の奥に、つまりはあたまのなかの眼に、すこしは映じさせることができるようになりました。

 表出について  

 表現に対し表出ということばがあります。この表出の概念は、いまのところ人さまざまに使用されており、その概念は一様ではありません。その表出ということばを、表現という概念に対してどう使い分け、どう概念差を明確にして用いているのかは、おのおのの書き手の頭のなかにあることといってよい現状にあり、その意味するところは、語彙の使用された個々の具体的ありかたの位置づけにおいて推断されるばかりです。共通的に、その差異を明瞭化させたことばとは、いまだなってはいない状況です。

 ですから、これが正しいという使いかたは、必ずしも妥当性を持たないわけですが、わたしが、どういう概念において、このことばを使うのかは、明確にしておかねばならないことだとおもいます。

 表現ということばとは区別して、なにか表出的なものをあらわしたいという概念上の区別の要求がわたしたちの内部にはあり、それに起因して、そのことばが実現をみていることを考えれば、そこにおぼろげにせよ、表現との概念差をあらわしたものとして表出ということばが生みだされる必然的な実態感がそこにあったことはみてとれることでしょう。

 わたしにおいて表現と表出との差異は、意識的な媒介過程の有無においてそれをとらえており、表現性はともに有するものでありながらも、表現意識のありかたに差異あるものと位置づけて区別しております。

 表出とは、わたしたちが、その認識内容の側面を、それを現わそうという意識なくして、その認識が読みとれるものとしてあらわれてしまうもの、という概念です。

 顔の表情や身体のしぐさにおけるその形象のありかたが、その人間の考えや心情を察するに役立てられることがあります。しかも、その所作や表情においてそれを意図的にあらわそうとしたのではなく、むしろそれを秘めたいとおもいながらも、その認識(感情や思い)が内部にあることにおいて、その形象のあらわれかたのありかたから表出者の認識内容がたぐられてしまう。そういう現象は日常茶飯事にわれわれが体験し、活用しているところです。顔色をうかがいそれを読むことは、人間関係の高度の形成にみなさんも役立てておられるところでしょう。「忍ぶれど色に出にけりわが恋は・・・・」という歌も、その表出のありかたの一例です。

 この表出は、表現との融合をみせながら、具体的表現形象に反映をみせつつ、その取捨選択のうえに最終形象の成立をはかっていきます。無意識的表現性を意識的に表現へと転化させつつ、表出を表現化や不表現化させながら表現形象が形成をみる、ということがおこるのです。

 さらに深化した様態でのべるならば、自覚化された表現性が日常的に馴致され、ふたたび無自覚化への形成過程を経たのちにおいて、無意識を装ってあらわれる高度の表出性レベルに達した表出を自覚的にとらえるという人間表現の高度化もそこにおこります。ミケランジェロがいったように「わたしが(この彫刻を)彫り出すのではない、神がわたしの手をかりて彫りだすのだ」という心境のそれです。

 この過程の展望はいずれまた。

 表現と意識媒介  

 表現形象の原像は、あたまのなかに想像創出される認識ですが、それが生成即表現となるわけではありません。つまり無意識にただちに表に現れるものではありません。意識が媒介するのです。

 表現したいことの原像の創出と、表現形象が自己認識外の客体として疎外され成立をみる形象実現過程のあいだには、人間としての特殊な頭脳活動、自己生成像を自覚化して把握する意識という機能像が介在します。それゆえ表現形象を過程的につくりかえる(不表現過程を媒介しての表現を再構築する)ことが、表現形象の形成をなりたたせる枢要をしめ、それを可能ならせしめることをもはたしうるわけです。

 ここにはじめて、人間固有の表現が成立をみます。過程的に、自己が創出した表現形象の段階的受容を媒介しての、最終形象決定にいたる模索過程がそこに出現します。猿の人間まねによる擬似表現行為には、この過程は存在しません。

 表現とは、高度の意識過程を媒介し、脳細胞活動により生み出したイメージ(認識)を自覚的に観念内において対象化し、その原像をもとに、自己の認識外部に創出対象化させた形象をつうじて、その形象に対した人間の脳細胞に、その形象を媒介させることによって創出者の精神生産の内容(イメージや概念)を受容者の脳細胞の主体的活動により創出させるものです。

 ここに特殊な、形象を媒介しての相互の精神の交通関係があらわれます。この精神の交通関係は物質の交通関係とは異なり、精神そのものが直接運ばれることはそこではありえません。表現形象が媒介をはたすことにより、作り手の精神産物を受容者の認識創出力に応じて受け渡すことを可能ならしめるものです。それゆえここでは、物質のように、産物そのもの自体が百パーセント相手に手渡されることはありえません。形象対象化の過程における創出者の表現力の問題と、受容者側における認識創出力の問題がここに浮上します。

 無意識的表現性の出現、すなわち表出の展望とともに、その課題の展開はいずれまた。

 映像化の抽象規定  

 わたしが創る映像作品は、映像構成や映像個々のありかたにおいて、それはきわめて自由度の高い代物です。撮影時には、およそコンテなるものはありません。そのときそのときの映像世界観的イメージがそこにはあるだけで、それが視覚的に具体化をみせているばあいもあれば、ただ質的にのみ意識されているばかりの抽象度の高い認識レベルのばあいもあります。といって、このふたつの像のそれぞれが離反したものとしてあるのではなく、相互に融合をとげたものとして表象化をみていることが大半ですが、それぞれのイメージのありかたは、相対的独立の関係におかれてあるのです。

 が、あえていえば、わたしのばあい、たえず映像化精神の基底にあるのは抽象的な映像質のイメージのほうが明瞭化していることが多くあります。このイメージが、きわめて抽象度の高い質的設計図となります。なにを撮りたいかではなく、なにを露わにさせたいかにたえずウエイトがかかっています。

 その質像がリアルに感覚的なものとして自己の対象像として実感されてあり、それが作品化への基底精神として直立していればいるだけ、具体像の選択が撮影時に直感的に的確化していく作用を、わたしにおいてははたしてくれるのです。むろん、絶対ということではないのです。具象化された映像イメージそのものが、その質的な世界像を無自覚にはらんでいる場合もありますから、そういう感触があるときは、その感情にしたがうことは間々あります。

 さて抽象的なイメージ、それはある種テーマなのかといえば、それもそうなのだとはいえるかもしれません。が、それはそこまでの言語化はまだ明瞭になされておらず、その映像質から喚起されるべき心理的な世界像だけが、自己精神の内部においてはしっかりと露わである。そういう状態だといえるようにおもえます。

 そうした抽象像がリアルに直覚的であればあるだけ、現実の映像具象化のレベルで、その基底精神が、わたしには有効に機能するといえるようです。抽象的な憲法精神が、すべての六法の基底にあって、その法規定を包括的に統括するごとくに。

 具体的に語れば、ある映像ショットの選択過程(これは撮影渦中のまっただなかにおいても同様、その時々刻々の選択過程にあるということができます)にあるとき、その映像では、露わにしたい世界像との間に齟齬が生じるという直覚的な自覚がおとないます。その映像形象のありかたへの修正化への意志が、精神の内部から強烈に発動され、その映像形象の現実的ありかたをとがめ、より心にそった必然的な映像たらしめるべく、その選択過程をよりよく厳密化していく。基底精神は、そういう作用を、わたしにあってはもたらしてくれるものとなるようです。

 カメラ眼のフレーム  

 ムービーカメラの撮りこむ映像視覚は、われわれの肉眼視覚と近似してはおりますが、肉眼とは異なる特殊な視覚性を保有しています。その特殊性は多岐にわたりますが、ここではフレームについてすこし展望しておきたいとおもいます。

 映像視覚には、なによりその限定づけられた明瞭な枠が存在します。われわれの肉眼には、そうした明瞭な枠がありません。肉眼の外部に窓枠のようなものがあれば、そのむこうにある光景を縁取りしてながめることができますが、そのフレームは、自己の主体運動により自由に変化させうる枠としてあるのではありません。それにひきかえ、カメラのファインダーあるいはモニター像は、自己が主体的に覗きこむ視野枠としてあり、明瞭な枠づけをおこなえることによって、そこに主体的主観的な視界表現性を発現させることができます。

 この明瞭に枠づけられるということは、スチル写真にも、また絵画においても同様にあることはいうまでもないことですが、そこにはすべて「構図」という特殊な美意識が発生をみます。その構図という内容性をはらんだ美意識を反映させる基礎となるのは、その明瞭な縁取りのなかに形成させる対象像のありかたによるのですから、構図は、枠形式により基盤的に規定されるもの、ということができます。

 ただし、スチル写真や絵画の場合は、構図はムービーのように横長とは限らずもっと自由です。さらにスチルの場合には、撮影後のトリミングにより枠決め表現が事後決定をみることもよくある事実です。しかし、ムービーの場合は、撮影時にその対象光像の構図が最終的な決定を見、かつフレーム形式も横長サイズに限定されたものです。

 フレームを持つことにより、われわれは、映像表現者の視覚的な美意識や直観的な無意識美の反映のあらわれを、つまりは、その映像形式の選択表現力のありようの一端をとらえることができます。

 表現する側に立てば、フレームにおいて視覚域を限定することにより、われわれはそこにおいて、自己の眺めたいもののみをフレームインさせて視つめるべき対象を明確にし、眺めたくないものをフレームアウトさせて視覚的に不表現化することを可能ならしめます。ここに、フレームのもつ原基的な表現性があるといえるでしょう。構図的表現力の形成は、このフレーム内の映像視覚像の表現性の自覚化から出立することとなります。

 編集にふける  

 しばらくのご無沙汰でした。この間、たてつづけに編集作業に精出すことがかさなってしまい、生来の不精もいきおい顔をのぞかせ、ついぞ執筆がお留守になってしまいました。

 その編集作業は、つづけざまに三つありました。

 ひとつは、某映像講座の受講生の編集実習が、当人のおもいどおりに進展をみない状況にあったのを、ほぼ同じ素材・同じ構成順位で、テーマ的にも同一性を踏襲しながら、その素材ショットのなかからカットをセレクトし、そのカット映像をさまざまに加工しながらひとつの編集実例をつくる作業でした。時間をあまりかけなかったということも手伝って、これといってよいできばえの見本には仕上がりませんでした。とはいえ、いくばくかは、その参考に供しえるものとなったこととは信じております。

 それにしても、パーソナルな映像視覚をパーソナルな視界から構成しようとする、わたしたちの映像作品の場合、他人の撮影したショットの編集は、やはりむつかしいものがあります。自分の心象を投影した映像は、自分の心象記憶とその映像対象化の現実的あらわれかたとを客観的に把握し、その差異と連関との自覚化のなかで、テーマの浮上をたぐりよせることも、また深く可能ならしめるものです。が、ここでは、それをなりたたせる条件は不足していました。テーマもまた、まったく当人のものから遠くはなれたものとすることはできませんでしたし、その必然を素材のうちに見いだすこともできませんでした。

 いまひとつは、10月に知り合いの和太鼓演奏者たちの公演を記録撮影したビデオがあり、それを記録作品としてまとめあげる作業でした。しかし撮影後、いまひとつ気乗りが起こらず、ほったらかしのままにしておいたものでした。とはいうものの、どうにかしなければならない時期が逼迫し、上記の編集作業終焉時に気持のはずみをつけ、一気に編集にとりかかりました。

 そして、なんとかリハーサルと本番とを切り分けた二部構成・一時間半弱のものにまとめあげました。さらに、時系列な記録でない、映像構成的な視点からの40分弱の音楽ビデオ作品を制作し、かつ7分程度のプロモーションビデオもおまけにつくりあげました。これは以前から別バージョンで依頼されていたものでしたが、今回の公演の記録をもとに、その記録素材の限界のなかでは、それなりに気持ちよくまとめあげることができました。ただ編集後に、パソコンがとてつもなく不調に陥り、レンダリングがどうにもうまくゆかず、それがひときわ大変な作業となってしまいました。作業のやりなおしやりなおしが続きに続き、ほとほと手を焼きました。当人たちはそんなことは露知らず、いまウクライナに演奏ツアー中です。

 最後のひとつは、某インディーズ出版の企画イベントに映像参画をたのまれ、その新作をつくりあげる編集作業でした。既存作品の出品にOKは出していたのですが、その宣伝チラシに新作と記載されてあったため、自分の言でないとはいえ、極力看板にいつわりなきを期し、急遽既存の撮影ショットのなかから素材カットをセレクトし、新作をまとめあげたものでした。コンセプトは、5カットで構成した小品をいくつかつくりあげ、映像小品集として提出しようというものでした。

 なんとかイベント当日までに七作品をつくりあげ、上映に間にあわせることができました。イベント後、さらに三作品を増加し、さきほど十作品のワンパッケージものに仕上げたところです。構想のなかではこの企画は、やがて百作品・十パッケージ分割したものに仕上げたいと、いま現在、おもいをいだいている途上です。

 撮影が反映するもの  

 ムービー撮影(ここではアニメ撮影は捨象して考察をすすめます)が定着する映像の基礎的なところを考察しておきます。
 カメラまえの対象光景を、相対的な独立にある時間枠意識と空間枠意識において切断し、その映像視覚像的反映のありかたを定着させること、それがムービー撮影です。

 この撮影は、それ自体が映像作品化にいたる表現過程の一過程であるとともに、またそれだけで過程としての表現完了をみるものでもあります。

 カメラマンが独立した専門担当であるときには、このカメラマンにおける表現は、現像過程への関与がある場合を除外すると(ビデオの場合にはこの現像過程はありません)、ここで表現技能者としての表現力発揮の終了をみるといえるものです。カメラマンの表現はここに完了します。

 それがここに述べた、表現の一過程であるとともにその過程としての完了をみる、ということの意味です。位相ある表現の複合的ありかたにおいて作品が完成をみるときには、個別表現過程の部位的な独立がそこにはあるということであり、その個々の表現完了のありかたが明瞭に独立しているということになります。こうした場合、その作品全体の統括融合化は、監督がおこない、その作品質の制作責任をになうこととなります。

 そうした構造化をみた過程における専門職分野としての撮影はひとまず脇におきます。というのは、表現として撮影を考察するとき、特殊に専門技能化した撮影は、まさしく表現そのものであるからです。
いや、素人が撮ろうと、その映像は表現そのものではないのか、そうおもわれるかもしれません。が、そうでもないのです。ここが、撮影表現の特殊なところです。カメラという映像定着機械を媒介した表現であるからです。

 撮影者の意識の選択眼の技能的ありかたとは相対的独立において、カメラはその機能的反映として対象の光像を定着します。同一条件の光景に対し、同一位置に同一レンズのカメラがあると仮定すれば、それは同一の映像を定着します。撮影者の意識が薄ければ、その像の反映が薄くなるかといえば、それは直接にはそうはならないのです。ここが絵画と根本的に異なる表現反映のゆえんです。意識がゆきとどいた光像として反映をみている場合もあれば、そうでない場合もあるのですが、たまたま条件が同一であれば、定着の映像は近似する。ここに撮影表現の特殊性があります。

 ある映像に美を感じたとしましょう。その映像美が、どこまで撮影者の表現美であるか、そういう問題が映像においては浮上してきます。偶然に機械的に反映する美もまたありえるからです。

 たとえば、ただ家族の記念写真を撮っただけのつもりだったのに、その撮影条件がたまたま逆光気味だったゆえ、髪の毛の輪郭がきわだって美しく写っていた。そういうこともおこりえるわけです。

 ここでは、表現者の事前の撮影美意識にかかわらず、事後的反映としての美が実現したことになります。ゆえにこれは人為的なものとしての美、つまり美意識を反映した表現美でありません。そこにあるのは自然美に準ずるものであり、観照意識において鑑賞するものとなります。ただしそれは、決してその部位だけを切りはなせないものとして融合されて表現実現されていることには注意をふりむけておいてください。

 そしてまた、不美の反映もまた同様の過程を踏襲するのです。

 撮影対象のメインとなるものに眼をうばわれるあまり、結果として背景や、枠内に写りこむ像のすべてに心をかよわせきらず、おもいがけずに不要なものが写りこんでしまう。そういう反映がありえます。
これは、表現しようとしたものとして写しこんだ映像ではありませんので、表現ではないものの反映であり、非表現的反映(カメラ機能の反映)というべきものです。これは、自然美に準ずると述べた先の場合も同様のことです。

 こういう反映のありかたは、機械機能を媒介するゆえの特殊性です。専門家は、こうした偶然の反映を選択的に削除したり(不表現化)、それを美意識にすくいあげ、あらためて意識的表現へと転化(表現化)したうえで光像定着をはかる作業をおこないます。ゆえに、その映像の反映のすべてが表現と化すのです。

 撮影映像には、このように非表現的反映としての偶出的なものがあらわれる場合があり、それが表現と溶融されて具体的映像が実現されていきます。とくに初心者レベルにおいては。

 つまり、非表現性と表現性とが合成像化しながら、映像が定着されていることになります。

 このことを念頭におきつつ、その非表現性に意識を向けながら、そのきりはなせぬ合成像としての映像を編集選択において表現化あるいは不表現化の作業をおこないます。その撮影時の諸条件のありかたを考察するとともに、自己の求める映像の真摯なありかたを探究することによって、そこに、おのが映像質を高めていく契機が生じることともなるのです。これはとても大事な作業におもいます。

 さらに映像の反映するものには、その意識的表現としての表現性と、無意識的表出としての表出表現性があり、その融合についても触れなければなりませんが、きょうはとりあえず、その偶出的な非表現性の反映についてのみの記述にとどめおくことといたします。

 表出のありかたの映像的反映の自覚化とその選択過程は、高度の表現実現に大変な威力を発揮するものであることを、ここにちらりとだけもうしそえておきます。そのことはいずれまた。