撮影が反映するもの  

 ムービー撮影(ここではアニメ撮影は捨象して考察をすすめます)が定着する映像の基礎的なところを考察しておきます。
 カメラまえの対象光景を、相対的な独立にある時間枠意識と空間枠意識において切断し、その映像視覚像的反映のありかたを定着させること、それがムービー撮影です。

 この撮影は、それ自体が映像作品化にいたる表現過程の一過程であるとともに、またそれだけで過程としての表現完了をみるものでもあります。

 カメラマンが独立した専門担当であるときには、このカメラマンにおける表現は、現像過程への関与がある場合を除外すると(ビデオの場合にはこの現像過程はありません)、ここで表現技能者としての表現力発揮の終了をみるといえるものです。カメラマンの表現はここに完了します。

 それがここに述べた、表現の一過程であるとともにその過程としての完了をみる、ということの意味です。位相ある表現の複合的ありかたにおいて作品が完成をみるときには、個別表現過程の部位的な独立がそこにはあるということであり、その個々の表現完了のありかたが明瞭に独立しているということになります。こうした場合、その作品全体の統括融合化は、監督がおこない、その作品質の制作責任をになうこととなります。

 そうした構造化をみた過程における専門職分野としての撮影はひとまず脇におきます。というのは、表現として撮影を考察するとき、特殊に専門技能化した撮影は、まさしく表現そのものであるからです。
いや、素人が撮ろうと、その映像は表現そのものではないのか、そうおもわれるかもしれません。が、そうでもないのです。ここが、撮影表現の特殊なところです。カメラという映像定着機械を媒介した表現であるからです。

 撮影者の意識の選択眼の技能的ありかたとは相対的独立において、カメラはその機能的反映として対象の光像を定着します。同一条件の光景に対し、同一位置に同一レンズのカメラがあると仮定すれば、それは同一の映像を定着します。撮影者の意識が薄ければ、その像の反映が薄くなるかといえば、それは直接にはそうはならないのです。ここが絵画と根本的に異なる表現反映のゆえんです。意識がゆきとどいた光像として反映をみている場合もあれば、そうでない場合もあるのですが、たまたま条件が同一であれば、定着の映像は近似する。ここに撮影表現の特殊性があります。

 ある映像に美を感じたとしましょう。その映像美が、どこまで撮影者の表現美であるか、そういう問題が映像においては浮上してきます。偶然に機械的に反映する美もまたありえるからです。

 たとえば、ただ家族の記念写真を撮っただけのつもりだったのに、その撮影条件がたまたま逆光気味だったゆえ、髪の毛の輪郭がきわだって美しく写っていた。そういうこともおこりえるわけです。

 ここでは、表現者の事前の撮影美意識にかかわらず、事後的反映としての美が実現したことになります。ゆえにこれは人為的なものとしての美、つまり美意識を反映した表現美でありません。そこにあるのは自然美に準ずるものであり、観照意識において鑑賞するものとなります。ただしそれは、決してその部位だけを切りはなせないものとして融合されて表現実現されていることには注意をふりむけておいてください。

 そしてまた、不美の反映もまた同様の過程を踏襲するのです。

 撮影対象のメインとなるものに眼をうばわれるあまり、結果として背景や、枠内に写りこむ像のすべてに心をかよわせきらず、おもいがけずに不要なものが写りこんでしまう。そういう反映がありえます。
これは、表現しようとしたものとして写しこんだ映像ではありませんので、表現ではないものの反映であり、非表現的反映(カメラ機能の反映)というべきものです。これは、自然美に準ずると述べた先の場合も同様のことです。

 こういう反映のありかたは、機械機能を媒介するゆえの特殊性です。専門家は、こうした偶然の反映を選択的に削除したり(不表現化)、それを美意識にすくいあげ、あらためて意識的表現へと転化(表現化)したうえで光像定着をはかる作業をおこないます。ゆえに、その映像の反映のすべてが表現と化すのです。

 撮影映像には、このように非表現的反映としての偶出的なものがあらわれる場合があり、それが表現と溶融されて具体的映像が実現されていきます。とくに初心者レベルにおいては。

 つまり、非表現性と表現性とが合成像化しながら、映像が定着されていることになります。

 このことを念頭におきつつ、その非表現性に意識を向けながら、そのきりはなせぬ合成像としての映像を編集選択において表現化あるいは不表現化の作業をおこないます。その撮影時の諸条件のありかたを考察するとともに、自己の求める映像の真摯なありかたを探究することによって、そこに、おのが映像質を高めていく契機が生じることともなるのです。これはとても大事な作業におもいます。

 さらに映像の反映するものには、その意識的表現としての表現性と、無意識的表出としての表出表現性があり、その融合についても触れなければなりませんが、きょうはとりあえず、その偶出的な非表現性の反映についてのみの記述にとどめおくことといたします。

 表出のありかたの映像的反映の自覚化とその選択過程は、高度の表現実現に大変な威力を発揮するものであることを、ここにちらりとだけもうしそえておきます。そのことはいずれまた。