不表現という創出過程  

 表現創出の過程には、不表現が重要な機能をはたします。

 それは表現しないことが表現過程に含まれるのだということであり、それは表現しないことが表現になるということでもあります。その部分だけを取りあげると、なにをいっているのそれ、とおもわれることでしょう。しかし、ここでいうところの不表現とは、表現形象化の過程のなかに位置づけられる不表現であり、はじめに不表現ありきではありません。表現するということは表現しないこととの一体のなかにおいて表現形象が成立をみるのです。これが人間表現の特殊かつ正当なありかたです。

 推敲という具体例をおもいおこせば、これはだれにもわかることです。

 ここでは、それを論理的に展望しておきます。推敲という表現形象の最終形態創出までの模索過程においては、表現形象を部分的・全体的にひとたび実現させ、その客体としての表現形象を表現受容し、その受容のありかたの省察のなかから表現形象の修正をおこなうものです。それゆえ、表現形象はひとたび実現をみるとともに、その部分ないし全体を不表現となし、あらたな表現形象におきかえをこころみる作業です。このひとたび創出した表現形象の抹殺が不表現過程です。この過程は、あたまのなかでの形象想像の観念像の抹殺としてもさかんにおこなわれます。これが表現質の向上をはたす役割をにないます。

 映像表現においては、撮影における複数のテイクとその選択における表現の排除、つまりは不表現化過程がそこにありますし、編集においての創出過程において、カットの組み換え等、不表現過程を媒介して表現最終形象が完成をみていくこととなります。

 この不表現の展望は、また時間のあるおりにゆるりとやらしていただくことにいたしましょう。

時相映像美<表現>学・事始 

 東京の映像上映集団「ハイロ」の上映会が1999年の夏にありました。作品をもって出向いたおり、映像実験誌として不定期に刊行されている『Fs[エフズ]』の編集長水由章氏が見にきてくださって、そこで雑誌への寄稿を依頼されました。ようやく理論的展望が曙光をみた時期だったので、そのときあたまに形成をみかけていた理論の展望概要と、それだけでは到底読めない代物となってしまうので自己の精神的遍歴を表象してあらわし、あわせて一気呵成に数日で書き上げた原稿を送付しました。

 あまり目立った応答もなかったのですが、それから一年ほどたって、原稿を掲載したいのでとあらためて連絡をいただきました。

 『Fs』7号に掲載していただいたのは、2000年9月です。

 表現論をいささか自前で展開しうるようになった端緒の文章です。論理は脆弱かつ混乱ありありで、現在の考えかたとも違っておりますが、表現受容過程の論理化は、きらり光っているものがあるとおもいます。その前半の精神的遍歴の叙述はまた熱っぽく、ようやく曙光が見えはじめた心の躍動があらわれているようにおもえます。

 最後の文章のいきがりには、気恥ずかしさをとおり越して笑ってしまいますね。ようやく理論的な展望が仄みえて微熱の続く時期でした。熱に浮かされていたのは間違いありません。


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 <時相映像美 <表現> 学・事始>


 映画は、わたしにとって「死に至る病」である。

 青春病の一典型として著名な映画熱病は、危険な病いではあるものの、およそ急性病として、ほとんど30才まえにはその病いが癒えるのが通常のこととされている。しかし個人的条件の差異か、はたまた運命か、その病源に魅入られ、深部にまでその毒性が浸透を果たしてしまうと、もはや微熱から解き放たれることは絶望的となり、脳内には日ごと夜ごと映画の妄想が蠢きを続け、うわごとのごとく、映画・・・映画・・・とつぶやくようになる。そしてなによりも悲惨なことは、この病いを慢性化して抱えることによって、およそ社会人としては無能な廃人と化してしまうケースが少なからず見受けられるということである。事実、わたしはそうなってしまった。わたしにとっては、映画は「死に至る病」である。それはそれでよい。自分が意志したことのなれの果てのことなのだから。それは視点を変えれば、酒飲みの肝硬変となんら変わるところもない業病である。

 しかし、職業病としての側から慢性化を余儀なくされたのではないこの病いが、自分にとって到底癒されぬ病いであることが自明のこととなり果ててから、わたしにはある妄想が明瞭な展望をもって自らを襲うこととなった。その妄想ビジョンとはこうである。

 近未来のとある日、世界を制覇することを果たした反映像帝国は、その強力な支配力をもって突如世界に映像禁止令を発布する。各執政区画ごとに映像神の刻みつけられた踏み絵が運び込まれ、各個がその踏み絵のまえに並び立たされる。執政官の睨眼する射すくめる無言の視線を浴びながら、踏み絵のまえにひとりまたひとりと呼び出され、副執政官の「踏むがよい」という乾いた声のもと、踏み絵の儀式が静寂のなかに進行してゆく。やがて否応なくわたしにその儀式のときが来たる。わたしは凍り付いた意識のまま踏み絵に対峙する。副執政官の声がわたしの耳に鳴り響く。「踏むがよい」。その瞬間に時間は停止し、わたしは踏み絵のまえに、踏むこともまた額ずくこともできず、ただ佇んでいる。

 これがわたしを襲った妄想ビジョンのすべてである。そして、いまもわたしはただ佇んでいるに過ぎない。踏んだところで、どのみち助からぬ身であることがわたしには分かってしまっていた。不幸は、踏まずに額ずく道が自分の次元を高めてくれるのでもなんでもないという、あきらかな事実の覚醒の側にあった。

 この不幸な覚醒した微熱が、わたしに個有の顕著な映画病の症候といえるものなのだといえよう。

 いまから30年もまえの昔、わたしはこの業病を突然に抱え込んだ。病いを深く患わすに足る、得体の知れぬ病原菌が次から次へとわたしを襲った。それはフェリーニ菌でありブニュエル菌でありアントニオーニ菌でありブレッソン菌でありゴダール菌でありヘルツォーク菌でありタルコフスキー菌であり小津菌であり溝口菌であり川島菌であり、そしてコクトー菌でありブラッケージ菌であった。

 しかし、体外からやってきたこうした病源菌に冒されているだけのことであったなら、わたしの病いは、もっと早くに、平常人へと復帰する快癒の道を見い出していたかもしれない。この病いを決定的に深部に追いやったものは、いまとなれば歴然としている。他人の映画によっては満たされ得ない思いを形象化したいと握りしめた8mmカメラによって、それはもたらされたのだ。

 シネカメラを握りしめることにより、映画はわたしの毛穴という毛穴から有無を言わせず猛烈に沁み込みはじめた。それは、映画をできあがったものとして眺める立場から過程的なものとして視つめる立場への鮮烈な転移といえるものであった。映画への問題意識は実体的な深さを着実に増し、薄紙が一枚ずつ積み上がるがごとく、時には眼から鱗がはがされる体験を伴いながら、映画というものが、ひたすら深く深くまたどこまでも深く、それゆえの恐れをともなって、肌身に肉薄して直観されていった。映画は、もはやわたしの身にまとう衣服ではなく皮膚となり果てた。脱ぎ捨てることはできない相談ごととなってしまった。

 やがてわたしは一本の超短編をでっちあげることとなった。それが、この流れを加速した。成し得たことはほとんど大したことはなかったものの、やろうとしたことはそれなりに、その時代に意味あることではないかと自負するところもあった。しかし、誰もなにもそのことには触れるものはなかった。わたしは、自分の不器量を恥じるとともに、しかし、なにかがおかしいと感じ始めていた。

 映画を見るということの意味と認識行為があまりに懸隔している。それは一体なんなのか。

 わたしは、われわれの映画を含めて<映画>概念の外延を捉えていたが、映画上映サークルの運動がまだ残垢的に居残っていた当時の状況下のなかで、劇映画を頂点として映画表現をヒエラルキー的に眺める同時代の多くの映画人もどきの人々のうちには<映画=劇映画>という構図が無意識裡に頭を支配しており、内的な理解者を見出すことは絶えて稀なことであった。

 わたしが第一に違和感を覚えたのは、劇映画のかつて達成した高峰を仰ぎ見ることは妥当なこととわたしも認めていたものの、それは先人が達成したことであって、それを称揚する人間がもたらしたものでもなんでもないという当たり前の事実をわきまえていたのに対し、その人間たちがそのことをどこかに置き忘れ、どう頭を寝違えたものか、上等の映画を認識しえる自分をあたかも上等のごとく勘違いするという、とんだお笑いを演じていたことである。そういう人間たちに高踏駄弁の一語を発されるごとに、わたしはつい我慢がならず、十語をもって噛みつくという無謀を重ねた結果、ついにわたしは映画狂犬病者として、ことごとく周縁の映画の関係者たちからは毛嫌いされるという、当然の事態を招来させてしまったのであった。

 そしてこの構図は、裏返された意味で、実験映画の彼方にあっても同様のことが繰り返されたのであった。

 わたしが違和感を覚えた第二は、そうした人々との映画の見方の相違だった。

 わたしは、ある映像作品を鑑賞するに、その映像をその映像構成でOKを与えた人間が最終的な形で存在するという疑いようのない事実から出発したのであり、それゆえ、立ち現れた映像世界が、どうした人間のどうした発想からそうした映像となり映像構成となっていったのかを追体験するのが鑑賞することの意味であると思われたのであった。しかし、こうした作家の内実を過程的実践的に解読していく視座を意識的に導入していくことは、その当時、あるいは現在においてもそうかもしれぬが、極めて稀少なことであって、それゆえ、わたしの見方は特殊かつ特異な鑑賞法として、ときには疑いの眼と心をもって、そうもいえるであろうという扱いのなかに、明確な問題意識を相手に生じさせることもかなわぬまま、つまり言葉が相手にとどかぬままに、わたしは自分の見方のその意味での異常性を自覚させられるハメとなったのである。事実、その当時、わたしは自分の感性が本当におかしいのではと疑うほかない時期が少なからず続いた。

 その煩悶から解き放たれたのは、自己の鑑賞視点から追体験しえた作家の世界の過程的展望を仮説として自己のうちに定立し、それを事実的に検証することをえたとき、はじめてその仮説を真説として認識転化するという訓練の積み重ねを通じてのことであった。作家の語る自作への言葉のうちに、わたしの視座が近接していることの証明を少なからず確保しえた、事後的事実の堆積がそこにあったのである。

 一度、自らを疑った事態を通過して直立した自己信頼は大きいものであった。しかし言葉はやはり、なまなかに向こう側には届かなかった。以前よりははるかに届く力をもたらしたものの、それはただ、声が大きくなったという体のものでしかなかった。

 いつか、この声を向こう側に、すなわちわれわれの映画を含めての映像作品の表現の本質を、感性レベルを超える理性の言葉をもって提示したいという衝動がわたしのうちにほのかな兆しを見せた。すでにその時、わたしのうちには直観されている映画というものが確かにあるように思われていた。ちょうど時間というものが疑いもなくなんびとにも直観されているかのごとくに。そして・・・・

 「映画とは何か?」、この決して発すべきではなかった言葉を、自らの力量をもかえり見ず、わたしは自らのうちに自らが対峙する絶対公案として課してしまったのである。それはじつに愚かなことであった。動かぬ頭を思惟させることの苦渋は、ときに自分の頭をかち割ってしまいたい衝動を幾度となく内発させた。こと志の高みとは異なり、それを自らの思惟のうちに成し遂げんとするには、ほとほとわたしの頭は低劣でありすぎたのだ。ほとんど絶望的状況からの出発である。

 それゆえ、わたしははじめ、こっそりと既存の映画理論に寄り掛かろうとした。誰かが既にわたしのかかえていた疑問を解決してくれているのではないか。なんびとかがすでにやってくれていることなら、わたしの出る幕はもとよりない。しかし、事態はあまりにも深刻なものであった。頼るべき理論どころか、否定すべき葬り去るべき理論が充満していたのである。わたしは唖然とするほかなかった。そののちに茫然自失の自己がやってきた。これでは、わたしが否定した映画人もどきの人間そのままの自己構図ではないか。背中を幾条もの冷たい汗が流れ落ちるのを覚えた。真剣さをいやがうえにも増すほかなかった。

 そのときにわたしが覚悟しえたことはただ一つ、語れないうちは語らないでおこう、それだけの覚悟であった。そして、流された血と汗がたとえ徒労に帰そうとも、それを潔く良しとしようではないかという諦観と、そうならないための努力をひたすら続けるほかないのだという覚悟の臍を噛みしめたことであった。
 そして、20余年がたった。なにごとかを呟いても許されるだろうという思いを抱けるまでには、なんとかこぎ着けつけたように思われる。

 わたしの頭が悪いがゆえに良かった点はただひとつだけ認めることができる。それは、この悪い頭を説得しなければ合点がいかなかったという点である。皮肉といえばこれは最大の皮肉だった。わたしは、合点のいかない悪い頭を抱え、頭のよい連中がやすやすと飛び越える認識の溝をしっかりと埋めることによってのみしかその溝を越えることができなかった。しかし、苦労を重ねてある溝を渡り終えてみると、はたして頭のよい連中の飛び越しようが現実なのか空想なのかは、はっきりと見定めがついたように思われる。頭のよい連中がみずからに欺かれる愚だけは避けることができた。

 とはいえ、わたしに分かったことのいくばくかは他愛もないものであるようにも思われる。体系的な展開は、後日、別の場に委ねることとして、ここではわたしがなにをなそうとしているのかの簡略な構図を、体系のタイトルの解題からその陰影を暗示するに止め置きたいと思う。



[「時相映像 <表現> 学」と命名する意図]


◆映像という言葉にはときとして静態的な映像としての写真を含む。ここでは映像表現を動態的かつ定性時間的構成順位が確定された完結された映像表現に限って対象とする意図を明確化するため「時相映像」という造語を創作した。

◆時相映像表現全般を対象とした一般的体系の展開は今後の課題とする。まず対象とすべきは時相映像美である。時相映像美<表現>学は、特殊時相映像<表現>学に該当する。

◆美とは観賞価値を有するものをいう。相対的鑑賞価値論として美を考察する。

◆表現論はあまた存在するが表現学はいまだ確立されていない、とわたしは考える。それを自分が成し得るとは思わないが、その一石は投じたいとは思う。表現学と名付けるゆえんである。学とは対象の構造的本質的論理体系化である。真の学は実践的でありうる。

◆表現ではなく<表現>とするのは、通常の表現の概念が表現創出過程に重きをおき、表現受容過程を付随的もしくは排除の認識構図で展開しているのに対し、表現の意味性(後述)の反省より論理的必然として、表現概念の外延のうちに表現受容過程を含めたものを表現過程として捉えねばならないとの考えから、この広義表現過程として表現という言葉を、それゆえ通常の表現とは異なる概念として、使用する意図を有して、それを<表現>と表した。これを、たとえば広義表現という言葉にして使用しなかったのは、それが広義表現という言葉にして使用しなかったのは、それが表現という言葉の本来ありうべき内容でああると考えたからである。



[<表現>概念の概要記述]


 表現は人間に固有のものであり、それは人間が意識を持つ動物であることに由来する。意識とは自己認識を自己対象化する機能である。意識機能を有さない動物には表出過程は存在しても表現過程は存在しない。なぜなら表現とは必然的に表出形象の認識対象化を過程的構造的に有するものであるからである。

 表現を人間が行うのは、人間的生産形象を通じて人間的認識を対象化し、その対象化された形象を媒介してその形象より辿れる人間的認識をふたたびその形象と対した人間の認識に戻すためである。このふたたび人間の認識に戻る過程が表現受容過程である。それゆえに、<表現>はこの両者の過程をあわせてこそ成立する概念である。この過程の円環は、特殊には、自身のうちに閉ざされても、その過程がある限りにおいて、表現としては成立する。

 表現創出過程には、観念的対象化過程と対感覚化外化対象化過程(形象化過程)とがあり、この二重対象化が相互浸透的過程として存在する。対感覚化とは、われわれの五官に作用する絶対窓口がなければ認識内容を捉える糸口がないことを指し示す。認識がすべて感性的認識に移し変えられるという意味での感覚化ということではない。言葉ですら文字として視覚的に訴えるか、声として聴覚的に訴えるか、その五官を駆使させることを、直接的に必要とするのである。

 表現受容過程は、表現形象の感覚的受容過程と創作者認識への追認識能動過程が二重化されており、直接的に同一化された認識体験として受容者の認識を創造する。

 この表現過程の考察を除いて人間の精神生活を真に理解することは不可能である。なぜなら、人間のすべての対象化された生産には、表現的側面と非表現的側面とが不可分に、すなわち直接的同一的に実体するからである。あらゆる人間的生産を表現対象として捉えることを可能とする端緒がここにあるといえる。

以上


 この自己創出した表現理論を背景に、独自の映像美表現理論を展開していく予定でいる。しかし、その体系をどのように言語表現化していくかは、いまだ定かではない。いまこの場で言えることは、必ずやわたしはこの仕事をやり終えるだろうという、そのことだけである。それまでは映像美の理神は決してわたしを殺すことはあるまい。わたしは不遜にも、いま、そう信じてやむことがない。わたしは神のまえに、ただ佇んでいるに過ぎぬのだが。

 劇映画的表現性    

 劇映画的表現とはなんでしょうか。

 <劇映画=劇表現+映画表現>とみなしたいと、わたしはおもいます。

 こういう図式には、ご不満の向きもおありでしょう。いかにもだれにもおもい描けそうな、安易なビジョンにうつるからです。しかし単なるおもいつきから、こうしたビジョンを持ちだしたのではありません。

 現代映画表現を、そのすべての映画表現を貫くべく<映像視覚の構成体>と定義づけますと、劇映画は、その映像視覚構成体としてあるとともに、かつ劇的展開の構成が重層的に構造化され、立体的に表現されています。映画演劇的表現と映像視覚構成表現とは相対的独立の関係にあり、位相の異なる次元において、われわれの心にはたらきかけをおこなってくるものとしてあります。とはいえ、それぞれの表現は、相互浸透をしっかりとげるまでに融合化の工夫がなされ統一化をみていますので、そのそれぞれの表現がばらばらに受けとめられることなく、統一した心でうけとめられるよう表現実現をみているものなのです。この特殊な構造をもった表現性が、劇映画に個有の表現といえるものです。

 ですから、劇を撮影しさえすれば、それはやはり劇映画といえるものとはなるし、その資格をもつのです。事実、誕生期の映画には、そうしたものといってよい作品がありました。

 しかし、演劇そのものがいかに高い芸術性を実現していようと、その映画作品としての芸術性は、映画表現力、つまり映像構成の表現のありかたとの相互浸透の統一化の表現力にかかりますから、その表現力が幼ければ、個別の表現性がきわだつばかりにとどまり、劇映画としては貧しい作品となるのです。被写体そのものの芸術性は高いが、その記録のありかたと構成は芸術性が低いということになります。テレビの劇場中継の一部には、そうした事実をはっきりと見てとることができる作品もあります。

 こうした展望にたって、劇映画=劇表現+映画表現、と定義づけたわけです。

 では劇映画の重要な要素である、劇表現とはそもそもどういう表現であるのか。その一般的考察と映画的特殊性においての考察は、いずれ日をあらためて考察したいとおもいます。

映画・編集時代のはじまり  

 編集という表現は、光景撮影の描出を単体(ワンショット)にとどまらせず、いくつものショットを複合的にくみあわせて構成するという表現です。

 映画表現の創出過程として、ここにそれがはじまりをみたといっても、はじまりのその当時は、それはまだ単純素朴な構成体でした。
そのショットのつながりの有機的連関は構造性が平板で、ただ時系列的に並び置かれた<ワンショット=ワンシーン>の光景をつらねただけのものでした。簡単にいえば絵本的な構成でした。

 ここでいうシーンとは、ある場面というよりは、ひとつの空間場として認識しえる光景というほどの意味です。

 しかし、この編集というあらたな創作工程の出現によって、劇映画的展望がおおきく映画表現にもたらされ、その劇映画の発展が、映画の表現力をおおきく高めていったのでした。

 ところで映画は、そのほんらいの表現のありかたからして、劇映画――映画のための創出劇の光景を記録・構成した作品――という表現様式だげがすべてではありません。

 おおきくはドキュメンタリー映画があります。ドキュメンタリー映画は、そのカメラまえの被写体自体を創出することはありません。しかし、それは対象の単なる光景記録ではないのです。

 撮影主体(=カメラマンということではありません)の美意識や自然観・人間観・社会観を反映させた選択眼によりその光景を切り撮り、作家の表現世界観を基盤に、その作品としての表現世界を対象化しつつ編集構成することにより、対象世界の真実を表現する。

 そうした重要な映画表現の一様式です。この映画のありかたも、映画考察の埒外とするわけにはまいりません。

 しかしながら、大きなマクロの観点から映画表現の発展をとらえますと、映画表現力の向上、つまりその実力アップは、映画表現の一様式である劇映画の創作活動のなかからその多くがもたらされたことは事実です。

 劇映画のための表現技法の発明や撮影力の向上そして映像構成の深化が、劇映画自体の表現発展としてあるとともに、それがまた映画表現全体の芸術的発展の歴史として形成されてもいるという、重層的な発展過程とみなせる現実がそこにあります。

 それゆえ、この表現発達のすがたを記述するために、ここでは劇映画を中心に語っていくことが、そのあるべき必然となります。

 それでは、初期の撮影+編集=映画のそのはじまりの時代へ、ふたたびひきもどることにいたしましょう。

 しかし、その時代の表現的ありかたを考察するまえに、みつめておきたいことがあります。この時代を発端に、劇映画という映画表現の発展が、観衆の動員をさらにさらにと拡大させていった現実をです。

 この時代、劇映画の表現発達により、その表現進化が観衆のよりおおきな陶酔を誘い、興行的スケールの発展がいきおいよく推進されていきました。

 その興行的成功の発展の継続が、映画表現を産業として根づかせる基盤となり、あらたな表現冒険を、その表現生産全体の部分的生産において可能ならしめる余剰をも、ゆたかにはらんでいったのでした。
ひとつの映画作品の衝撃的な成功は、その表現の可能性に胸高鳴らせるあらたな才能をもった人たちを、この表現領域に引き込んでいきました。

 全体的にあるいは部分的に、過去の作品の表現レベルの凌駕をあらたな参入者たちは志し、作品の質量的な向上と興行的成功が幸福に結びついて実現することを夢想させながら、その若やいだ野心を大きく育み、その表現上のもろもろの冒険的挑戦を実現させていったのでした。

 先人のなしえた表現力獲得はまだ微力なものでした。表現上の工夫がただちにあらたな表現効果を生む、そういう表現開拓の達成しやすい時代でもあったのです。

 映画はまだ幼少の成長期であり、たちまちにその表現スケールを変えてしまう、そういうすさまじい過渡期のまっただなかにありました。

 それに映画はなにより、同じ作品を同質性においていくつもつくれる複製が可能でした。撮影ネガを原盤として反転したポジフィルムを上映するからです。その複製は当然、制作費よりはるかに安く生産できます。興行的には、評判をよべば、拡大して興行をおこなうことも容易に可能でした。ひとつのヒット作品が誕生をみれば、莫大な興行収入がえられるのです。

 映画の興行的成功をもとめ推進させていく心的動力は、またたくまに巨大化していきました。むろんその片側では、冒険の失敗による没落をともないながら、しかし映画表現全体の大きな展望においては、過去の表現限界をつぎつぎと打ち破り、映画は、表現的にさらにさらにおおきな進化と発展をとげていったのでした。

 表現技法に特許はありません。あらたな表現技法の発明とその表現効果は、映画表現に取り組む同業の表現者たちにまたたくうちに伝染吸収され、その模倣をおこさせ、やがて確立された表現技法として、もはや映画表現においてはありきたりの表現と化しながら定着をみていったのでした。


 映画は、撮影=映画の時代から撮影+編集=映画の時代へと移行をみせました。

 しかし、そのはじまりにおいて、ショット(中断のない光景撮影)のつなぎは、まだ素朴なものでした。

 それ自体としてひとまとまりの表現ともみなしうるワンショットの創出光景を、よりおおきなまとまりの観点から構成的展望を与えたといえるレベルの構成でした。このよりおおきなまとまりの観点を与えるもの、それが劇的構成でした。

 映画は、劇的構成をその表現にもちこみ、物語性の構成をはじめに創造し、その全体の構成をいくつかに区分して、その各部を映画劇の創出光景として具体化して、そのひとまとまりづつを撮影していきます。その区分されたまとまりのワンショットを、はじめに構想した大きなまとまりにもとづいてつなぎあげていく、そうした映像構成の映画でした。

 そうした映画=劇映画がつくられ、それが映画興行牽引の主流表現様式となっていきました。

 そのはじまりには、さきにものべたように、そのショット間の有機的な連関の構造性はいたって平板で、また劇といってもサイレントですから表現はアクションだけのもの。その劇的表現性にも限界がありました。

 そのショット構成においては、人間心理をダイナミックに展開させていく高度のショット構成、つまり一場面におけるこまかい視覚分割として表現される、そのショットからカットへの飛躍は、まだまだ想起されることもない時代でした。

 ですからここでの劇映画とは、物語構想から全体の設計をたて、そのワンシーンをひとまとまりのワンショットとして撮影し、それをつなげてともかくひとつの映像構成体として仕上げたもの、そのような映画でした。

 そういう表現レベルでしたが、映画はここで、構想設計という創出段階を、その撮影に先立って十分に組み立てておく必要な段階へと達しました。ここに注目しておきたいとおもいます。

 これは二重の意味において必要でした。

 ひとつは空想段階での構想の推敲と確定の作業をしっかりと対象化するためのものとしてのそれです。もうひとつは、その確定が現実の撮影作業を組み立てるためにどうしても必要なものとしてあるという設計表現の自立としてのそれとしてです。

 映画表現は複雑化し、おおくの人間が一つの作品にかかわるようになってきました。その分担と準備と手配も複雑化していくこととなります。

 かつてはメモやおもいつきというレベルで十分のところにとどまり、いきおい現象的には撮影現場から映画表現のスタートがきられましたが、もはやそれではすまない段階にまで映画表現の協業作業が工程的に複雑化する傾向をみせてきました。

 かくて構想設計という創出のありかたが、おぼろげな創出過程の一体的なありかたからはっきりと分離されて結晶をみせ、それを自立した創出過程として意識させ、その表現の必要性を自覚させるにいたったのです。

 かくして劇映画の出現により、くっきりと、<設計+撮影+編集=映画>というまっとうき創出過程が表現創出過程として意識され、かつ表現現象としても実現されることを推進させていくこととなったのです。脚本の出現もそのひとつのあらわれです。

 こうして映画創出の協業工程が複雑化すると、その全体の創出過程の統括をはたし、その創出の表現質をコントロールする人間が必要となります。カメラマンが、その役割をになうにはかなりに無理があります。もっと専門家された映画作品全体の表現設計と実現を推進する人間が必要です。こうして映画演出家がその専門職としてあらわれてくることとなりました。

 劇映画は、映画演出家=監督が、その作品の表現質を決定づける役割を果たすこととなりました。

ヘーゲル『美学講義』を読む  

 ヘーゲル端倪すべからざる人というほかありません。折にふれ、その『美学講義』をひもとくのですが、ただただ感嘆させられるばかりです。その本文に入るまえの入口にも達せぬほんの序論にも、ヘーゲルはいきづいています。

 ただしこの著作は、ヘーゲルの死後、弟子たちが講義の受講ノートをもとに構成したもので、ヘーゲルの直接の執筆になるものではありません。

 長谷川宏氏の翻訳をかかげ、その部分の感想を記した自分のノートを、ここにすこしだけ引用しておくことにいたします。



『美学講義』P5

まずもってきっぱりいえるのは、芸術の美は自然よりもすぐれているということです。というのも、芸術美は精神からうまれ、くりかえし精神からうまれる美であって、精神とその産物が自然とその現象よりもすぐれているのに見合って、芸術美も自然の美よりすぐれているのです。形式的にいえば、人の頭に浮かんでくるつまらぬ思いつきでさえも、そこに精神性と自由が働いている以上、あれこれの自然の産物よりすぐれている。むろん内容からすると、たとえば自然物たる太陽が絶対に必要な存在であり、とりとめのない思いつきは偶然に思いうかび、はかなく消えていくものではある。が、太陽のような自然存在は、それだけをとりだしてみると、ただそこにあるというだけの、内面的な自由や意識をもたないものだし、反対に、他の事物と必然的につながるものとして見るときは、それをそれだけで見ることはなく、したがって、そこには美がなりたちません。

(晶彬)

 表現という精神の対象化過程のない自然を、美の考察の対象から除外するヘーゲルの考察はするどい。

 「精神からうまれる」「形式と内容」「偶然と必然」「自由と意識」「それをそれだけで見ることはなく」

 ここだけでもわたしには天才的考察におもえる。ヘーゲルは生成の美をしっかりと見据えている。

 「それだけで見ることはできない」の指摘、じつにすばらしい!
 それだけを切り離して見る人間を見よ。美を映す人間の美意識をこそ見よ。

 下記の一節がヘーゲルの真骨頂、考察の筋道のたて方の見本でもある。
 「太陽のような自然存在は、それだけをとりだしてみると、ただそこにあるというだけの、内面的な自由や意識をもたないものだし、反対に、他の事物と必然的につながるものとして見るときは、それをそれだけで見ることはなく、したがって、そこには美がなりたちません」

 この文章だけでも数年の検討を要する内容がある。おそるべしヘーゲル


『美学講義』P6

精神と芸術美が自然よりもすぐれているというのは、たんに外面的な比較にもとづいていわれることではない。むしろ、精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在であって、すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえるのです。その意味で、自然の美は精神に属する美の照り返しにすぎず、その実質が精神のうちに求められるような、不完全で不十分な美です。

(晶彬)

 観念論の立場からの言であり、「精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在」とは、わたしの立場からはならないが、「すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえる」というのは、鑑賞論の展開に十分脱皮させうる内実の深さがある。わたしの立場から鑑賞論的に変容させれば「すぐれた精神の見出したものであることによって」となる。

「自然の美は精神に属する美の照り返しにすぎず」人間精神とすれば納得。「その実質が精神のうちに求められるような、不完全で不十分な美です」すばらしい。

 この「精神」は、ヘーゲルにあっては人間にあるとともに人間外にある世界の根源だが、わたしたちは人間精神にとどまる。その条件差異が決定的違いであるだけだ。

 ただしヘーゲルの「精神」は、また、世界をつらぬき通す論理でもあるから、単純に唯物論的反映論の視点で書き換え、それでことすませないよう、その真意への目配りを怠らないことが肝要。


『美学講義』P6

美学の対象を芸術に限定するのは、(略)自然物の美しさという視点をあえてとりあげ、自然美について体系的に記述した学問を作りあげようなどとは、だれも考えないからです。役に立つという視点をあえてとりあげ、たとえば病気のときに使える自然物(薬用物質)の学問を考えだし、治療に役立つ鉱物や化学製品や植物や動物について記述するといったことはおこなわれるが、自然界を美の観点からまとめあげ評価するといったことは、だれもあえておこなわない。自然美というと、あまりに漠然としていて基準がなく、その観点から自然をまとめあげることなど、人の興味をかきたてないのです。

(晶彬)

 学問対象として自然美一般という抽出基準がもちえないとのヘーゲルの断定。ここまで考察のめくばりを怠らないその思索の徹底性。それを朝めしまえに軽くやりのけるヘーゲルの実力。

表現をなしうる人間頭脳の機能 

<表現という語彙>


 「表現」ということばが一般につかわれるとき、その語彙は、「表現する」という過程的なものを指示するばあいと、その表現したことの結果としてあらわれた「表現されたものやかたちのありかた」を指示するばあいとの両義があります。

 この意義のちがいは、表現ということばのつかわれた文章にあっては、そのことばのおかれた前後のありかた、つまり文脈においておよそ推測されますが、ことばに両義があり、それを弁別しなければならない必要がある以上、そのそれぞれの定義にもとづいた区別のなしうる語彙を用いなければ、内容意図の解釈を誤解におとしいれる危険を野ざらしするということになります。

 そこで、「表現する」ということを「表現創出」ということばとし、それが表現にいたる過程的なものであることをはっきりととらえられる語彙としてあらわします。また「表現されたもの」は、われわれの五感の対象となる物象であるゆえに「表現形象」とし、それが感覚対象の存在であることがわかるように、いいあらわしておくことといたします。


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<表現をなしうる人間頭脳の機能>


 人間は、なぜ表現するのでしょうか。いや、もうすこしさかのぼって、人間はなぜ表現できるのでしょうか。すこしばかりそのいきさつを省みておきたいとおもいます。

 人間は、まず物質的な存在です。この肉体というもの、脳髄をふくめてのこの身体が、なによりも人間であることの基体です。

 しかしまた人間は精神的実在でもあります。人間から、その精神性のゆたかなはたらきをのぞけば、これほどの地上の繁栄を人間はもちえなかったことは明白でしょう。人間の保持する肉体そのものだけをまな板にのせれば、凶暴な動物に対抗しうるほどのすぐれた備えはないに等しいものです。にもかかわらず、人間がこの地上の王者のごときふるまいがなしうるまでにいたれたのは、ひとえに、この精神の優越性ゆえにほかなりません。

 では、その人間の精神性とはなんでしょうか。結局それは、人間脳髄の特殊なはたらきに帰着することになります。

 人間、この高度に進化した地球動物の最先端生命体の、その脳細胞の機能は、他の動物種を凌駕するにたる、きわめて特殊なものでありました。他の動物種では生成できない、特殊なすぐれた認識機能を、人間は進化させることを果たしました。そのひとつが意識という機能です。

 意識は、自己の生成した認識(頭のなかの像)を脳細胞機能において観念的に自己対象化させ、それを認識自覚化することができるはたらきです。いわば鏡に認識を映してそれをながめるように、自己が生成した像(認識)を受容する認識を生成することができます。認識を構造的に駆使しうることが、人間において顕著に明瞭化したのです。
これは頭のなかでの像創出機能に階層が生じ、人間においてそれが特段に発達をとげたことを意味します。認識に階層が生じ、その認識内において、自己認識を認識するという認識の媒介過程を創出しうる機能がそなわることによって、人間は自分をみつめ、その行動を、意識によって規定していくことが可能となりました。一般的にいえば、自分のあたまのはたらきをみつめる自己認識機能をもつことができるようになったことにおいて、自分を自分とわかる存在となったのです。そして、はじめて地球動物種のなかで、心を把握できるようになったのです。ゆえに、心を持つ、ということを自覚しうる最初の動物ともなったのでした。それは、意識レベルで、心を持ったはじめての動物ということともなるのです。

 こうして人間は、自分の考えや思いを媒介的認識としてとらえることができることになり、それによって、自分の行為を客体として眺めることができるようにもなります。

 この認識を自己対象化して認識しうる認識機能において、人間はその認識的立場をも、自在に自由に、空想的な移行をさせることが可能となりました。他者の立場に空想的に身を置くことができるようにもなったのです。

 この自己対象化できる認識機能があるゆえに、人間には、表現が可能となりました。行動規定を意識によっておこなうことができるからであり、それが成り立たねば、表現はありえません。表現とは不表現とともにあることにおいて、表現たりえるからです。すなわち、表現しないことの契機を含めて、はじめて表現は成立するのです。これが人間固有の表現のありかたです。表現するとは、その表現をどう受けとめられるかの認識運動のなかにあります。ゆえに、他の動物種には厳密な意味での表現活動は成り立ちません。猿の人間まねの絵画ごっこ行為を、絵画表現ととらえることは、表現の本質をみつめていないがゆえに生じる誤謬のあらわれです。

 この表現の本質過程の意味と説明は、また別稿で展望することといたします。ともかくここでは、表現活動ができる動物としての人間というビジョンを、人間の認識機能面から、ひとまず認識しておいていただきたかったのです。


 表現そのものに、すこしばかり踏み込んでいきたいとおもいます。

 表現とは、自己が生成した認識の展望を、その認識を客体として受けとめられるように認識外に外化させることです。その媒介の形象を創出し、その形象を媒介させて、その原型の認識を追認識的に創出させるありかたです。

 どういうことじゃそれは、とお叱りが飛んできそうですね。すこしわかりやすく書きましょう。

 頭のなかに表現したいとの思いと像(認識)が浮かびます。それを、なんらかの形(動作・音・文字・絵・映像など)に写しかえて、それを表に現します。そのことによって、それを仲立ちとして、つくり手のあたまのなかの像(心情とか考えかたとか空想)をつかみとることができることとなります。

 この媒介の形象を創出することを、表現といいます。ただし、それは一般の規定で、わたし的には、この表現を受けとめる過程をふくめ広義に<表現>をとらえています。

 それはひとまずとして、この表現は、人間の生産活動のありかたのひとつであり、人間がその生活を人間らしく営むうえで欠かすことのできぬものです。人間は、相互に深く広範な協業関係にあり、肉体的にも精神的にも他者の産物を受け取ることによって、自己の生活を成り立たせています。この協業社会を維持するうえでは、表現は決定的な役割をはたしています。精神の相互の交流なくして、この協業関係は維持しえないのです。

 それゆえここでいう表現というのは、なにも芸術的な表現だけをいっているのではないことは自明でしょう。人間の生成するすべての表現、たとえば「おはよう」というあいさつのごとく、完結した自己世界を現わすのではない素朴な言語表現も、すべてふくまれるのです。
 こうした形象を人間が創出しなければならないのは、頭のなかの像、つまり精神そのものには、直接ふれるすべがないからです。それは像ですから、その像のありかたに接近しえるように、その像を原型として創出した物象化された形象を必要とします。これは自己自身に対してもおこるものです。日記的なありかたとか、覚書メモといった類の表現がそれです。

 この形象を介して、他者(自己のなかの空想他者でもあります。また日記等の場合には時間差のある自己を、いまの自己ならざるところの他者とするのです)の脳細胞がその形象を感覚的に認知するとともに、能動的にその自己ならざるものの認識のなかにわけいることができるようになります。こうしておこなわれる事実が示すことは、わたしたちの精神活動が表現形象を媒介して、精神的にゆたかな相互の交通関係を結ぶことをあらわします。

 その表現活動の特殊なありかたが芸術表現といわれるものです。

 芸術表現は、現実の生活を直接的に維持するためにではなく、媒介的に、その人間生活そのものを、精神的にゆたかに享受するための表現創作のありかたです。わたしたちはそこでは、他者の精神の奥深さやゆたかさやおもしろさを、他者の脳細胞の生みだすあらわれの形象を介して、その内容を自己のものとすることができ、そこに感動やよろこびや楽しみが湧きおこります。

 きょうはひとまずここまで。

 映像視想メモ(13)  

<映像視想メモ・最終回> 1981年執筆


 あるとき、4・5人ばかりの映画ファンと、いましがた見たキューブリックの「二〇〇一年宇宙の旅」についてわいわいと語らっていた所、SF映画マニアのもの知り屋の一人が、やおら、その映画で使われた宇宙船模型の話をしはじめた。

 「この〇〇〇〇の宇宙船は××センチと×××センチと××××センチのミニチュアが使用され・・・・・・」とその詳しいこと詳しいこと。どこか外国のマニア雑誌からでも仕入れた知識をまき散らかして、そのことが、あたかも「二〇〇一年宇宙の旅」という映画の隠された秘密をあばき出すかのごとき口ぶりで、楽しげに話をすすめてゆく。ばくはそのときふいと思った。キューブリックはそんなことを当の昔に忘れているだろう。いや、最初からあずかり知らぬところであったかもしれない。一体そんな只の知識が、この作品の何を解き明かしえるのかと。

 映画の楽しみ方は個人個人千差万別であろう。魅せられた映画の端から端まですっかり知り尽くしたいと願うマニアの気持ちは、一つの楽しみ方として分からぬではない。それはそれでよい。ただ錯覚して貰っては困ると思うのは、手品の種が分かれば、それでその手品の面白さまでが飲み込めたように思いこんでしまう杜撰な短絡精神なのだ。映像として現われ出たものは、すこしまじめに映画を齧じれば、まずそこそこは把握できる。どのような役者配置で、どのように動かしながら、どのポジションから、およそどれぐらいのレンズを使って、どのような照明であったのかが。できあがった世界ははっきりとしている。しかし、どんな精神がどのような発想から一体何を顕わにしたいがゆえにいかなる経路を通じてそうした映像世界が定着されえたのか、それを見い出すことは難かしい。分析し分析しぬいて、なおかつ手に余るところが見えぬと本当の面白味が分からない。手品の種をあらかじめ見知っていようと、何度見ても驚かされることがある。一体それが何であるのかを考えてみるべきではないか。さもなければ、手品を見る楽しみが、手品の種をあばきたてるという姑息なところへ沈み込んでしまう。

 その技法をまねるよりは、その精神のありようをこそ見習うべき作家は数多い。映画をまなぶとは、技法の使われ方をせっせと仕入れることには尽きぬのだ。技法は作家の魂と分かちがたく結びついていなければ小手先の技巧にすぎぬ。そのところが紙一重の肝要な一点であると思う。

 えらそうなことを書き綴ってはきたものの、正直、書きえたことと自身の実体との狭間は飛び超え難く乖離している。いつか自らの作品が、その狭間を埋めねばならないだろう。



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 このコーナーの最終回。ようやく一般劇映画をまな板にのせて、それをダシにしながら、自分の真情を吐露しました。
 実体と思考との乖離は、その後も埋まらず、鋏状の開きをさらに拡大しながら現在にいたっています。その課題は、ついに四半世紀ごしとなりました。

「いつか自らの作品が、その狭間を埋めねばならない」、ということに尽きるのです。

「年たけて又こゆべしと思いきや命なりけりさよの中山」

 西行のごとく、さもありたきものです。涅槃にいたらぬまえに。