映像化の抽象規定  

 わたしが創る映像作品は、映像構成や映像個々のありかたにおいて、それはきわめて自由度の高い代物です。撮影時には、およそコンテなるものはありません。そのときそのときの映像世界観的イメージがそこにはあるだけで、それが視覚的に具体化をみせているばあいもあれば、ただ質的にのみ意識されているばかりの抽象度の高い認識レベルのばあいもあります。といって、このふたつの像のそれぞれが離反したものとしてあるのではなく、相互に融合をとげたものとして表象化をみていることが大半ですが、それぞれのイメージのありかたは、相対的独立の関係におかれてあるのです。

 が、あえていえば、わたしのばあい、たえず映像化精神の基底にあるのは抽象的な映像質のイメージのほうが明瞭化していることが多くあります。このイメージが、きわめて抽象度の高い質的設計図となります。なにを撮りたいかではなく、なにを露わにさせたいかにたえずウエイトがかかっています。

 その質像がリアルに感覚的なものとして自己の対象像として実感されてあり、それが作品化への基底精神として直立していればいるだけ、具体像の選択が撮影時に直感的に的確化していく作用を、わたしにおいてははたしてくれるのです。むろん、絶対ということではないのです。具象化された映像イメージそのものが、その質的な世界像を無自覚にはらんでいる場合もありますから、そういう感触があるときは、その感情にしたがうことは間々あります。

 さて抽象的なイメージ、それはある種テーマなのかといえば、それもそうなのだとはいえるかもしれません。が、それはそこまでの言語化はまだ明瞭になされておらず、その映像質から喚起されるべき心理的な世界像だけが、自己精神の内部においてはしっかりと露わである。そういう状態だといえるようにおもえます。

 そうした抽象像がリアルに直覚的であればあるだけ、現実の映像具象化のレベルで、その基底精神が、わたしには有効に機能するといえるようです。抽象的な憲法精神が、すべての六法の基底にあって、その法規定を包括的に統括するごとくに。

 具体的に語れば、ある映像ショットの選択過程(これは撮影渦中のまっただなかにおいても同様、その時々刻々の選択過程にあるということができます)にあるとき、その映像では、露わにしたい世界像との間に齟齬が生じるという直覚的な自覚がおとないます。その映像形象のありかたへの修正化への意志が、精神の内部から強烈に発動され、その映像形象の現実的ありかたをとがめ、より心にそった必然的な映像たらしめるべく、その選択過程をよりよく厳密化していく。基底精神は、そういう作用を、わたしにあってはもたらしてくれるものとなるようです。