カメラ眼のフレーム  

 ムービーカメラの撮りこむ映像視覚は、われわれの肉眼視覚と近似してはおりますが、肉眼とは異なる特殊な視覚性を保有しています。その特殊性は多岐にわたりますが、ここではフレームについてすこし展望しておきたいとおもいます。

 映像視覚には、なによりその限定づけられた明瞭な枠が存在します。われわれの肉眼には、そうした明瞭な枠がありません。肉眼の外部に窓枠のようなものがあれば、そのむこうにある光景を縁取りしてながめることができますが、そのフレームは、自己の主体運動により自由に変化させうる枠としてあるのではありません。それにひきかえ、カメラのファインダーあるいはモニター像は、自己が主体的に覗きこむ視野枠としてあり、明瞭な枠づけをおこなえることによって、そこに主体的主観的な視界表現性を発現させることができます。

 この明瞭に枠づけられるということは、スチル写真にも、また絵画においても同様にあることはいうまでもないことですが、そこにはすべて「構図」という特殊な美意識が発生をみます。その構図という内容性をはらんだ美意識を反映させる基礎となるのは、その明瞭な縁取りのなかに形成させる対象像のありかたによるのですから、構図は、枠形式により基盤的に規定されるもの、ということができます。

 ただし、スチル写真や絵画の場合は、構図はムービーのように横長とは限らずもっと自由です。さらにスチルの場合には、撮影後のトリミングにより枠決め表現が事後決定をみることもよくある事実です。しかし、ムービーの場合は、撮影時にその対象光像の構図が最終的な決定を見、かつフレーム形式も横長サイズに限定されたものです。

 フレームを持つことにより、われわれは、映像表現者の視覚的な美意識や直観的な無意識美の反映のあらわれを、つまりは、その映像形式の選択表現力のありようの一端をとらえることができます。

 表現する側に立てば、フレームにおいて視覚域を限定することにより、われわれはそこにおいて、自己の眺めたいもののみをフレームインさせて視つめるべき対象を明確にし、眺めたくないものをフレームアウトさせて視覚的に不表現化することを可能ならしめます。ここに、フレームのもつ原基的な表現性があるといえるでしょう。構図的表現力の形成は、このフレーム内の映像視覚像の表現性の自覚化から出立することとなります。