読み返すとおもしろかった 

 お久しぶりです。論争の一件が片付いたので再開です。

 大正四年(1915)、いまから90年もまえに書かれた実用書があります。その書が、いまだに実用性を失っていない。それだけでも、じつに稀有なできごとといわなければなりません。堺利彦の「文章速達法」がその書です。題名どおり文章表現のための実用書で、その復刻が講談社学術文庫に入ったのが1982年。復刻初版からでも優に20余年がたちます。とてもとても息のながい書物です。

 わたしがはじめてこの書物を手にしたのは、86年あたりだとおもいます。そのときは、文章創作体験もほとほと浅く、いい内容の本だとはおもいましたが、ビビッとくるほどのものはありませんでした。最近、読み直して、びっくりしました。これは大変な名著だったのだと感じ入りました。自己の文章実践が、この間ほんの少しばかり積みあがって、その分、以前よりすこしは文章表現に対する意識が向上したのでしょう。

 やさしく書かれているのですが、じつに要素への目配りと配列が巧妙で、骨太い理が地中深く貫徹されています。この様な本は読むにはすこぶる楽ですが、書くにはほんとうに骨が折れるものです。その汗がしたたり見えないところが、ほんとにすごい。感服ものです。

 「談話も文章も同じことで、易いといえば易いが、さて難しいといえばどちらも難しい。つまりはその人々の才力と学問と修業とによることである。」

 さりげなく「才力と学問と修業」と述べてあるが、含蓄がなかなか深い。

 「しかしまた、演説はうまいが文章はまずいとか、文章は上手だが演説は下手だとかいう人がある。これはその人の体質の出来方と修業の仕方とによって、根本の才力と学問とが外に現れてゆく道筋に、便利な方面と不便利な方面とが出来るのである。そこで、演説でも文章でも、非常に上手になろうというには、根本の才力と学問と修業との外(ほか)、特にそれぞれの技術の最もよく適した、生理作用(もしくは心理作用)を持って生れた者でなくてはならぬ。例えば、一流の演説家になろうという人は、何よりもまず声がよくなくてはならぬ。すなわち発生機能の十分な人でなくてはならぬ。文章家の場合においては、演説家の声におけるがごとき、著しい素質の必要を指し示すことは難しいけれど、やはりどこかに、それに適する特別の機能があるに違いない。これを天稟の人という。かような天稟を持って生れた人は、別に修業らしい修業をせずとも、いつの間にか一廉(ひとかど)の名人になっている場合がしばしばある。」

 流れと具体例がバランスよく配列されています。現代的でない言葉づかいはありますが、それは自分で容易に翻訳できる範囲です。

 「しからば天稟のない人は幾ら修業しても駄目かというに、決してそうではない。相当の才力と相当の学問とがあって、それに相当の修業を加えれば、必ず相当の上手にはなれる。時としてはその方が、修業を積まぬ天稟の人より上に行(ゆ)くこともある。そこで根本の才力と、特殊の天稟とは致し方もないが、その外(ほか)にはただ学問と修業とが肝腎ということになる。」

 天賦の才はあるに越したことはないが、後天的には修業が大事。しかしである、

 「しかしまだ一つ問題が残る。右のごとくいうと、天稟が無くて、そして特別の修業をせぬ者には、到底、演説らしい演説はできず、文章らしい文章はできぬということになるであろうか。決してそうではない。特別の修業をしたことのない人でも、ある事柄について十分の知識を有し、十分の理解を有し、十分の感興を有し、十分の熱心を有し、どうしてもそのことが言いたくて言いたくてしようがないという情意を貯え、またどうしても自分がそれを言わねばならぬという地位境遇に立つときには、必ず相当に立派な演説なり文章なりをやってのけることができるものである。もちろん、その演説なり、文章なりには、種々不整頓な点もあるであろう。しかし少々の不整頓くらいは、そんな場合、決して疵になるものではない。かえって疵そのものが当人の誠実を現し、真率を示すことにもなる。」

 のです。じつに目配りとその軽重のバランスがよい。「言いたくて言いたくてしようがない」という内容をもつことがどれだけ大事であるかということが、ストンと理解される構成です。

 映像表現も、まさしくそうなのだといえるでしょう。