ポオ「構成の原理」 

 エドガー・アラン・ポオの「構成の原理」(篠田一士訳)はおもしろい。

 この詩論は、ポオの代表詩であり、あまりにも有名なかの「鴉」の創出過程をみずからが詳述したものです。創作の秘密の園に自分の作品を素材として足を踏み入れ、その過程の解き明かしを自身でおこなっている論文です。一言でいえば、じつにスリリング。自己分析のその自己客体化はすばらしいものがあります。醒めた眼が、じつに玲瓏として高らかに自身を凝視しつづけています。異常なまでに。

 できあがった結果ではなく、できあがるまでの作家精神内部の創出過程の具体的遍歴を記述しえるのは、みずからでしかありえません。しかしこの過程に足を踏み込んだ叙述の試みを、すくなくともここまではっきりと著したのは、ポオがはじめてのことではなかったでしょうか。そのこと自体にポオ自身がふれています。

 『ぼくはときどき思うのだが、どんな作家でもいい、自分の作品のうちどれか一つが完成するまでに辿った過程を逐一詳述する気になれば(というのは、それができれば)、たいへん興味深い雑誌論文が書かれるはずである。そうした論述がなぜ公刊されないのか、ぼくには何とも言えないが、恐らくは作家の虚栄心が他のどんな理由にもましてそのことと関係しているのであろう。大抵の作家、殊に詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我的直観で創作したと思われたがるものだし、また舞台裏、つまり、手は込んでいるが未だ定着していない生(なま)の思想とか、最後の瞬間まで補足しがたい真の目的とか、無数の片鱗は覗かせても全容を顕わすまでには熟していない観念とか、手に負えないことに絶望して放棄してしまった熟しきった想像とか、細心の取捨、苦しい推敲、要するに車輪と歯車、場面転換の仕掛け、段梯子と奈落、雄鶏の羽毛、紅と付け黒子といった、九十九パーセントは文学的俳優の小道具であるものを、読者に覗き見されることに怖気をふるうものである。』

 こうしてこの過程は、あからさまにわたしたちの前には容易に姿をあらわしません。その意味では、その楽屋裏を、しかも精神の楽屋裏を、ここまであからさまに記述しえたポオの特殊な力量には驚嘆を隠し切れないでいます。

 ここでは、その長きにわたる全文を掲げるわけにはまいりません。とはいえ、文庫本でわずか19ページという分量。スグにでも読み通せる程度です。しかも、詩の創出にとどまらず、その構築過程の記述は、映像創作のありかたにも大変役立つものです。

 なにごとかの創作を志す人ならば、眼を通しておいて、決して損することのない論文におもいます。

 その具体的構築過程を語りはじめるはるか前の序論ですが、大好きな一文を掲げて、きょうは終えたいとおもいます。

 『普通に行われているストーリーの組み立て方には、根本的な誤りがあるとぼくは思う。歴史に題材を仰ぐか、同時代の事件に触発されるか、或いは、せいぜい、作者がめぼしい事件を組み合わせて物語の大綱だけを作り、頁を追って見え透いてくる事件や行為の間隙を、たいていは描写や対話や自注で埋めようとしている。

 ぼくなら手始めに効果を考える。独創的であることは絶えず念頭に置きながら――この明らかに容易に得られる興味の源泉を敢えて無視するのは自己欺瞞である――まず最初にぼくは、「感情や知性、(更に一般的には)魂が感受する無数の効果や印象の中から、今の場合どれを選んだものだろうか」と自問する。第一に斬新な、第二に生き生きとした効果を選びとったら、それが最もうまく生かされるのは事件によってか、調子(トーン)でか、つまり平凡な事件と異常な調子を用いてか、その逆か、それとも事件も調子ともに異常にすることによってかを考え、それから、その効果の案出に最も有利な事件や調子の配合を、ぼくの周囲に(或いはむしろぼくの内部に)捜し求めるのである。』

 時間的余裕があれば、この文章の解読にも、また手を伸ばしたいものです。

 「手始めに効果を考える。独創的であることは絶えず念頭に置きながら」

 たとえこれだけでも、呪文として唱え続ければ効験あり、とわたしはいい置きたいですね。