「徒然草」のとある一段  

 先般、とあるところで、その場の話題の関連にふれて、ひょいと木登り名人の話を持ち出したことがあります。語ったそのあとで、たしか出典は「徒然草」ではなかったろうかと、おぼろげな記憶をたよりに、帰宅後、書棚の奥から「徒然草」を取り出して調べました。記憶どおり、たしかにありました。第109段、下記に全文を掲げます。

「高名(かうみょう)の木のぼりといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いとあやふく見えしほどはいふこともなくて、おるるときに、軒長(のきたけ)ばかりになりて、「あやまちすな。心しておりよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛びおるるともおりなむ。如何にかくいふぞ」と申し侍りしかば、「そのことに候。目くるめき、枝あやふき程は、おのれが恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所になりて、必ず仕ることに候」といふ。あやしき下蟖なれども、聖人のいましめにかなへり。鞠も、かたき所を蹴出してのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらむ。」(角川文庫「改訂徒然草」より)

 無類の名文です。徹底的に無駄は削ぎ落とされ、その構成的展開の骨格だけが精妙に浮上するギリギリの描出にとどめてあります。感性と理性を溶融させた透明度の高さ。吉田兼好の脳髄のなせるそのわざをなんと形容すべきでしょうか。抑制の至芸、名人というほかありません。こういう文章でないと、名人の話を書こうとも、その書き手の表象通過の実態を浮上させることにはなりません。内容に形を与えることのまことのむつかしさを痛切に感じます。

 そうおもえば、こうして駄文をつらねることは、ほとほと絶望を背負ってしまうことにも感じてしまいます。メゲますよ、まったく。

 古文に不得手の人のため、現代文をここに掲載して、そそくさとこの一幕は閉じましょう。

「木のぼりの名人といわれた男が、人を指図して高い木にのぼらせて梢を伐らせた折に、ずいぶん危なそうに見えるほど高いところに登っていた間は、何もいわないで、おりるときに軒の高さぐらいになったとき、「過ちをするな。気をつけておりろ」と声をかけましたので、「これくらいの高さになったら、たとい飛びおりてもおりられるだろう。どうしてこんなにいうのか」と申しましたところ、「そのことなんでございます。目がまわって、枝が折れそうで危ない間は、恐ろしくて自分で気をつけますから、こちらからは何も申しません。過ちは楽な気持ちになってから、必ずいたすことでございます」という。卑しい身分の人間だけれども、その言葉は聖人の誡めにも適っている。鞠でも、蹴りにくいところをようやく蹴出して、これで安心と思うと、必ずやり損なうとやら申しております。」