自主映画というたわごとについて 

 明石にインディーズの著名な超弱小出版社があります。知る人ぞ知る、かの幻堂出版です。その出版社を独力で運営しているのは、なかのしげるさんという方で、70年代初頭より、8mm作品を赤土輪という監督名で制作し続けている映像作家でもあります。

 自主映画についてなにか書いてほしい、と頼まれたのはもう数年もまえのことでした。すこし留保期間がありましたが、発刊する雑誌を丁重に送り続けていただき、その義理が圧力となって、ともかく書き上げました。

 その後、その原稿に対しての音沙汰はなく、ボツになったと判断していささかホッとさせられておりました。しかし、そのほとぼりの遠く遠く醒めたころ、ふいと「何の雑誌・第6号」に掲載をみました。今年の7月のことです。いささか以上にびっくり仰天でしたが、原稿を投じてしまえば、その掲載の権限はむこうのもの。こちらにはもとより文句はありません。

 とはいえ、筆力不足・展開不足のまずしい文章のうえ、掲載への期間は遠く開き、テーマはまた自発のものにあらず。その掲載文章をあらためて視つめさせられることとなり、なんともいえぬ気恥ずかしさにおそわれました。

 今日は終日バタバタしており、文章を書くいとまがありませんでしたので、気恥ずかしい文章ですが、それを代替に掲載し、お茶を濁しておくことにいたします。



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<自主映画というたわごとについて>


 どのような表現であれ、それがメシの種にはならぬことのほうが多い。

 表現は、いわば人間が人間らしく生きていることの証でもあるものだから、表現という活動自体を人間がやめて暮らしていける道理はもとよりない。会話を持たずには生活物資ひとつ手に入らぬことも起ってこようというものだ。

 この表現のありように二態ある。鑑賞を目的とした表現と、暮らしを支えるための実用的な表現とである。無論その境界は茫洋としたものであって、相互に入り組んで個々の表現形象はまだら模様の実現を見ることになる。

 実用的なものは脇において、ここでマナ板に乗るべきものは鑑賞を目的とした表現である。ひとつの世界として完結をみた、作品として形象化されたところの他者との心的交流を意図されてのそれである。
 当然ここで意識されているのは、映像において作品化されたそれ、ということになる。

 その映像において実現化された鑑賞表現の作品は、すこぶる巷に横溢している。テレビの受像機から、はたまたスクリーンから、それらの作品がわたしたちの眼に飛び込んでこない日はない。

 これらの作品の製作費は、組織化された商業形態資本により捻出されたものが大半である。

 大きな観点から捉えれば、そうした作品を鑑賞したいと思う人たちの、その精神消化の対象作品を欲する衝動が、それらの作品の製作費を経済的に支持する基盤になっており、その基盤を背景に、再生産機能を担う商業資本が成立を見ていることは明白であろう。

 しかし、こうした商業ベースの枠内には手が届かずか、あるいはその社会的な枠決めに収まりきれないものの、自己の映像作品を創りたいと欲する人たちは、あまた無数にこの社会には存在する。人間はなによりも表現してやまない動物であるからだ。そして、その人間の前に、なにがしかの胸をゆるがす映像作品が存在し、それを制作しうる個人的ベースの制作システムが社会的に存在することが奇跡的にあったのである。それは、たかだか20世紀に入ってからの人類の表現史上のできごとであり、その個人をベースにした制作システムの確立は、その世紀の後半のできごとに過ぎぬといってよいことなのだ。

 個人をベースにした制作システムの出現は、自己世界を映像として対象化し定着させる道を拓いた。その制作費を捻出するベースが個人の経済力ベースにおいて消化される範囲で制作を可能ならしめた。こうした映像作品の99%余りは、本質的にはどれもこれも自主映像作品といってよいもので、それ以外に特別の区切りをもとめることなど誰もできはしない。

 ただ、編集長の中野さんあたりが意識している自主映像作品(それをフィルム作品に限定すると自主映画ということになるだけのこと)は、その上映形態のありようといったものが、そこに侵食を果たしていることが見てとれよう。

 つまり、個人的ベースで創るばかりでなく、その公開形態の創造にも個人的なパーソナルな匂いを求めているのである。これは個人的ロマンの世界であり、もとより語義の定義に及ぶ仕儀にはあらざることだといわねばならぬ。ただ、どう主張しようとも、その表現の自由性はありがたくも保証されている現代社会なのではある、ということにこの議題の落ちどころは尽きる。

 さてこそ、自主映像作品というのは大半がくだらない。表現意識が低く、表現技術に見るべきものがない。そのうえ表現して共感を得るべき世界がきわめて卑小のつくりにできている。というのが、少なく見積もっても80%は越えるだろう。無論、自作を含めてのこれは自戒である。

 でも時折、見過ごすことのできない輝ける作品に出会えることがある。砂場に落ちたダイヤを見つけた心境がそこに訪れる。

 そうした作品に出会えることは稀有なできごとではあるのだが、そうした作品は確かに存在し、それが非商業的にしか成立しようがない必然を孕んであるとき、われわれはそうした作品の制作過程としての自主映像作品という枠組みを意識させられる。ここにこの語彙を持ち出す意味が浮上する。

 パーソナルなツーンとした鼻を焦がす匂いが、パーソナルな個性のままにその世界を現出させたものとしてその作品はある。ある場合にはそれは、表現形態上の非制限性が、作家の映像世界像を歪まさずに表出性を伴って表現が実現化をみた結果であるように思われるものであり、またある場合には、映像へのあっけらかんとした思慕が思いを果たしたものであるようにも思われる作品としてある。

 こうした世界像に、映像を通してしか触れることができないと自覚させられるハメに陥ってしまった人たちは、再度の大穴を夢見て競馬場へと足繁くかよう心境で自主映像作品を見続けることとなるのかもしれない。

 だが、人生は短い。やはり、くだらない作品を見ることは目と頭の毒であるとしかと心しておくべきではないだろうか。それが中毒と成り果て、廃人一歩手前である、わたし同様の人間以外には。