表現外にカメラ眼の定着する光像 

 スチル写真の表現もムービーの表現も、ともに対象光像の記録をおこなうカメラという機械を媒介させて表現を実現させます。一見、機械そのものが記録をおこなうかのように見えますが、その視覚像のありかたの選択は撮影者の頭脳を介して実現をみるのですし、いったい何の対象を撮るのかの選択も撮影者の判断によるものです。そのもろもろの選択判断のうえでカメラスイッチを押すことになります。ですから機械が記録表現をおこなうのではなく、機械は視覚表現のありかたを規定する媒介物でしかありません。しかし、機械を介在させての記録のありかたは、他の表現、たとえば絵画形象の創出のありかたとは異なった、特殊な実現形象の形成過程があります。

 絵画の形象は、すべて認識運動を媒介してあらわれるもので、まったく偶然的な形象が出現する可能性はほとんどありません。偶然的な形象のあらわれを意図的におこなうという設計においてのビジョンをもったものとしてのそれとしてはありえますが、土台からのそれはないのです。

 しかし、カメラにおける光像の定着という過程では、意識的な心の反映でも無意識的な心の反映でもないもの、まったくの偶然性により定着をみる光像反映がそこではありえます。これを「偶出」と呼ぶことにしましょう。

 カメラを押す間にカメラの視角内に偶然に侵入をみた動態光像や、枠内に写りこんでいるにもかかわらず見のがしてしまった光像は、意識においてはその枠外にあって、しかも現実的な光像の反映としては欠落することなく定着されます。心そこにあらずしてそれを見過ごしてしまっても、まったくの認識外にあるカメラまえの現実が定着をみることとなります。しかし、それはただ認識外の現実光像がカメラ機能として現実的に定着されただけのことで、このあらわれは偶出であり、それは表現にはあらざるもの、つまり非表現形象です。

 前景に心うばわれるあまり、後景の写りこみに意識がゆきとどいていない映像光景が定着をみることは、いまだ撮影表現に無自覚なカメラマンにはよくみかける現象です。

 ここで以前に述べた、表現とは区別した表出をあわせて考えると、映像には、意識的反映としての表現映像形象と無意識的反映としての表出的映像形象、そしてこの非表現としての偶出的映像形象が、切りはなされずに融合して形象を実現化させていることになります。つまりここにおいての映像形象は、表現・表出的形象と非表現的形象が混雑しており、しかも切り離すことが不可能なものとして実現をみていることとなるのです。事後修正の可能性はここでは捨象して考察をすすめます。のちほどのトリミング修正を基本的にはおこなえないムービー映像の場合、この偶出的あらわれは、スチル写真の表現以上に、枠内の光像の写り込むものをシビアにとらえなければならないことを示します。部分的なものとしてその部位だけを抉りとるわけにはいかないからです。

 しかし、この偶出的形象は、いつまでも偶出的形象としてとどまるのかというと、必ずしもそうではありません。選択が表現の過程において、重要な基点であるという以前にのべた記述をおもいおこしてください。

 偶出的形象のあらわれを含んだその形象の全体を客体的に把握したうえで、自己の美意識をくぐらせ、その形象を表現と化す、つまり作品としたり、他者に対して提示しようとした時点で、それは表現へと転化するのです。意識媒介において表現化するという以前に展開した論理は、こういう過程的な具体を含みます。この選択を通じての表現過程化(むろんそれは不表現化という裏の過程も含めたうえでのそれです)は、それゆえ弁証法的に捉えてのみ、はじめてその実態をあらわにさせることができるものなのです。